教会では、昨日、待降節第3主日のミサが捧げられました。いよいよ、主イエスのご降誕が近づいてきました。そんな中で、今回の朗読箇所は、いわば、喜びへの招きといえるでしょう。
洗礼者ヨハネは、人々を、そして私たちを回心に招きます。回心とは先週もお話ししたように、心を180度転換すること。つまり、自分中心の考え方から、相手中心の、とりわけ弱い立場に置かれた人々を中心とした考え方に視座を変えることでした。
では、実際には私たちはどうしたらよいのでしょうか。その答のヒントが今日の福音箇所にはあります。
人々に回心を促す洗礼者ヨハネに対して、「わたしたちはどうすればよいのですか」という問いかけが、今日の朗読箇所だけで3度も出てきます。
まずは、一般群衆が、「わたしたちはどうすればよいのですか」と問いかけます。洗礼者ヨハネの答は非常に具体的でした。「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」というものです。当時はいまと違って、人々には洋服というものはなく、布を数枚重ねて衣服としていました。貧しい人たちはその枚数が少なく、重ねる布の枚数が少なかった。あるいは、貧しい人は、上着と下着を兼用とした布地1枚で過ごさなければならない人がいたかもしれない。一方で、普通以上の生活を送れている人は、下着と上着を明確に区別して、少なくとも2枚以上の布をまとっていた。中には、ここで下着と訳されている一番下に身につける着ける布を、いわば重ね着することによって温かく過ごしていたわけです。洗礼者ヨハネは、そういう、群衆に対して、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と教えたわけです。まさにそれは、人間が生活するうえで必要不可欠な日用品を、貧しい人々と分かち合うようにという教えなわけです。
次に徴税人が、「わたしたちはどうすればよいのですか」と洗礼者ヨハネに問います。答はこれもまた具体的で、「規定以上のものは取り立てるな」というものでした。当時の政治状況下で、実は徴税人は規定以上のお金を人々から取り立てて裕福な暮らしをしていました。いわば、罪人の代表格だったのです。したがって、ここでは、洗礼者ヨハネの答の明瞭さとともに、注目すべきは、罪人さえも、回心に招かれ、それを実行するには、具体的には何をどうすればよいのかの答がきちんと準備されていたということでしょう。これは現代に生きる私たちに対する答でもあります。つまり、洗礼者ヨハネは、回心という喜びに招かれるためには、正しく生活するようにと、人から搾取するような生活からは抜け出すようにと、弱い者をいじめるような生き方はきっぱりとやめるようにと勧めているのです。
3番目に兵士が同じように、「わたしたちはどうすればよいのですか」と問います。またまた洗礼者ヨハネの答は明確でした。「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」というものです。これもまた、現在の私たちに向けられている態度と言ってよいでしょう。つまり、意識的にせよ無意識にせよ、人から奪い取ってまでも必要以上に贅沢な生活をするなと勧めているわけです。
さて、罪人さえも回心への道を用意してくださっている父なる神、そしてイエス・キリスト様は、私たちにも具体的な回心の仕方をご準備くださっています。そこで、わたしたちもまた、洗礼者ヨハネに、いや、それよりも、いま、すでに聖霊という形でわたしたちの身近に共にいてくださる神に問いかけましょう。「わたしはどうすればよいのですか」と。
校長 大矢正則