【朗読箇所】マルコによる福音書6章1節~6節
【校長講話】
今日の福音のメッセージは、人間の思い込みの強さと、また、そうした自由意志を持った人間の激しい思い込みによっては、救い主による救いの業さえ遠ざけるという現実があるということです。
福音箇所では、イエスが故郷のナザレに戻り、安息日に会堂で教え始められた様子が書かれています。数々の奇跡を起こし、病人を癒したという評判は、ガリラヤ全土を超えて広まっていたおかげで、故郷の人々も、そのイエスを見ようと会堂に大勢集まってきました。イエスが教えはじめると、そこに集まっていた人たちが騒ぎ始めます。「こういうことを、この男はいったいどこから得たのか。この男が得た知恵をその手で起こす奇跡は、いったい何なのか」と。そして、人々は口々に、この男は石切ではないかと言い出します。今日読んだ聖書では「大工ではないか」と訳されているこの箇所は、正確には「大工」ではなく、「石切」です。ギリシャ語では、大工のことは「オイコドモス」といい、石切は「テクトーン」と言います。そして、オイコドモス、すなわち大工は、建築家であり、当時も尊敬される仕事でした。それに対して、テクトーン、すなわち、石切は、この時代の一般のユダヤ人が最も避けていた職業の一つで、日雇い仕事で、大工が家をつくるときに建材として使う石のブロックをつくる仕事です。山から掘り出してきた岩から、金槌などの工具を使い石のブロックを切り出す力仕事です。これがテクトーンの仕事で、少年時代からイエスは、父のヨゼフとともに、そういう仕事に従事していた者でした(「オイコドモス」、「テクトーン」に関しては、本田哲郎『聖書を発見する』岩波書店を参照しました)。
また、「マリアの子」という呼ばれ方も差別的な呼ばれ方です。なぜなら、当時は父権社会で、「誰々の子」と呼ばれる場合、誰々は必ず父親の名前が当てられました。したがって、ここで、「マリアの子」と呼ばれているのは、父親が誰かもわからないような人という意味なのです。このようにイエスは、故郷では受け入れられませんでした。それでイエスは、故郷の人々に、「預言者は、自分の故郷、親戚や家族の間では軽んじられるものだ」と仰いました。その時のイエスの気持ちはどんなだったか、はかり知ることはできませんが、もうこの時点で、イエス自身は、ご自身が神の子であることは承知していました。それは、十字架で磔になることも既に知っておられたということです。
故郷ナザレの人たちは、まだ、少年時代のイエスのことしか頭にありません。石切の仕事をしていたため、汗と汚れにまみれていたイエス。誰が父親かわからないで、マリアの子と呼ばれていたイエス。まさか、そんなイエスが、まさか、神であろうとはどうしても信じられませんでした。そんな思い込みがありました。
しかし、人が何と思おうと、人がどう思い違いをしようと神様のご意志は変わりません。イエスは、さらに多くの人から誤解を受け、弟子たちにも理解されないまま、十字架上への道を進むことになります。
ところで、イエスが人々からどんな誤解を受けようが、イエスを信じて支えてきたのは母マリアでありました。そして、十字架上の最後まで付き従い、復活のイエスと最初に出会ったのは、罪多きふしだらな女性であったものの、イエスと出会ったことによって回心したマグダラのマリアでした。イエスを最初にメシアと認識したのは、イエスの十字架の隣で同じように十字架に磔にされていた犯罪人の一人でした。イエスを最初に「神の子」と認識したのは、イエスが息を引き取ったときに「本当に、この人は神の子だった」と言った百人隊長でした。これらの人々はみな、自分の目の前で起きたイエスの出来事をそのまま受け入れた数少ない人たちです。
故郷ナザレの人たちをはじめ、最終的には大多数の人が、イエスそのものを見ずに、自分勝手な神を創造し、それに合わないからという理由でイエスを軽んじました。そしてこうした不信仰は、朗読箇所にあるように、イエスが「ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった」とあるように、救いの業さえも起こすことができないという現実をもたらしました。
私たちの中でも、イエスの、そして、聖霊による働きは起こっているはずです。それをそのまま偏見を待たずに受け入れる態度が求められていると思います。
校長 大矢正則