中学校・高等学校

聖書朝礼 マルコ5章21節~43節

投稿日2021/6/28

【朗読箇所】マルコによる福音書5章21節~43節

【校長講話】
 今日の朗読箇所は、実に福音的な箇所だと言えるでしょう。ここには、二つの奇跡物語が書かれています。一つは、会堂長の一人ヤイロという人の懇願によって、イエスがその娘を死者の中から生きる者へと変えた話。もう一つは、12年間も出血が止まらなかった女性の、その病気を癒すという話です。
 まず、話はヤイロの方から始まります。イエスのそばに大勢の群衆が集まっているところに、ヤイロは駆けつけ、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」と願います。そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけます。
 ところが、ここに、12年間も出血の止まらない女の話が割り込んできます。この女性は多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであったと書かれています。当時のユダヤの社会で、このような病は忌まわしい病とされていましたから、この女性はさぞ、苦しんで生きてきたことでしょう。どうにもならない気持ちでいたとき、イエスのことを聞いて、思い切って会いに来たのでしょう。しかし、身を隠すように生きてきた女性ですから、無名の者として、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れたのです。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからです。すると、すぐ出血が止まって病気がいやされました。
 ここで注目に値することは、イエスは、元々は会堂長ヤイロに願われてその娘の所に行くという行為をいったん中断し、出血の婦人の方を先に癒したということです。会堂長といえば、当時、ユダヤの社会ではそれなりに地位のある人でした。一方で、出血の女性は、その病気ゆえに忌み嫌われ、差別される側に立たされていた人です。イエスが、会堂長はさておき、こちらの女性を優先したことに意味があります。まさに神の力とは、このように、小さくされた者の側にまずは働くということが、このマルコの記述の仕方によって表されています。
 もちろん、その後、イエスは、ヤイロの家にも向かい、娘を死のうちから生命の世界へと蘇生させます。これは、神の力は、死をも支配するということを示す徴です。奇跡と呼ばれることが起こったわけですが、ここで、重要なのは、これは神がなさった業であるということです。その神の業を、私たち人間は、人間の言葉で記述するよりほかはありません。なぜなら、私たちは、人間を記述する言語しか持ち合わせていないからです。私たちは無限なる方である神を記述するための言語は持ち合わせていないのです。つまり、「超越たる神」は、本来それにふさわしい超越的な言葉で表現されるべきなのですが、私たちは「人間の言葉」に翻訳して語るほかはない(村上陽一郎『奇跡を考える』、岩波書店)。これが、奇跡を読み解く大きなヒントになると思います。
 ところで、重要なことを付け加えておきます。先ほどの、出血を癒された女性は、自分から名乗り出ることはしませんでした。それは、社会の中で差別される側としてひっそりと生きてきた女性にとっては当然の行動様式でした。しかし、イエスは、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と仰いました。弟子たちは、「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」取り合わないのですが、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回されました。すると、女性は、恐る恐る、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。ここにイエスと女性の人格的な出会い(森一弘『みことばの調べ[B年]』、サンパウロ)と交わりが成立しました。そのことによって、女性は、イエスから「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」と言われてのです。つまり、この最後のイエスとの人格的なやり取りによって、女性は、真に新しい人として生きることとなったのです。イエスとの出会いと交わりは人を新しくします。

校長 大矢正則

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