今日の福音書(マタイ10章26節~33節)では、イエスが12人の弟子たちを、福音を述べ伝えるための旅へと派遣したときに、弟子に教えた言葉が読まれました。この短い箇所に、「恐れてはならない」が1箇所、「恐れるな」が2箇所出てきています。聖書学者の説明によれば、ここに出ている2箇所の「恐れるな」は、既に恐れている者に対して、「恐れているのをやめなさい」という命令形で書かれているそうです。これから師であるイエスの元を離れ、福音を知らせる旅に出る弟子たちが、自らの行く先々で出会う困難、もしかしたら殺されるかもしれないという恐怖を、イエスはよくよくわかっており、それでも、「恐れるな」と諭します。これは、ある意味で弟子たちにとっては、あまりに厳しすぎる励ましのようにも取れます。
しかし、イエスには確信がありました。必ず天の父が、ご自身のことも、弟子たちのことも救ってくださるという確信が。それは、イエスが天の父の子であり、また、イエス自身も神であったから得られた確信でした。
しかし、弟子たちは、まだ、天の父を知りませんし、イエスのように親しく「アッバ」と呼びかけるものではありませんでした。それは私たちも同じです。だからこそ、父なる神も、イエスも、私たちに対して、繰り返し、繰り返し、父なる神は預言者を通し、そして、イエスはご自身の言葉で、「恐れるな」、「恐れることはない」、「恐れてはならない」と人々や弟子たちに伝え続けてきたです。これらの言葉は、聖書の中に、父なる神の言葉、あるいはイエスの言葉として、合計112回も登場します。そして、「恐れることはない」根拠として、神様が共にいるからという事実が示されます。「共にいる」という言葉もまた、聖書では64回使われています。
これらの言葉が用いられている聖書の言葉を2つ、旧約聖書の「イザヤによる預言」から紹介しておきます。
まずは、イザヤ書43章の1節から3節にかけての有名な箇所。
「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず 炎はあなたに燃えつかない。わたしは主、あなたの神」。
また、同じイザヤ書44章の1節から3節にかけては、
「わたしの僕ヤコブよ わたしの選んだイスラエルよ、聞け。あなたを造り、母の胎内に形づくり あなたを助ける主は、こう言われる。恐れるな、わたしの僕ヤコブよ。わたしの選んだエシュルンよ。わたしは乾いている地に水を注ぎ 乾いた土地に流れを与える。あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ あなたの末にわたしの祝福を与える。」とあります。
また、新約聖書では、イエスの言葉として、マタイ福音書は、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と締めくくられています。
それほどまでに、神は人々を一人ひとり大切にしています。イエスは、そんな父なる神のことを、今日の福音では、「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えておられる」と表現しています。これは、私たちの実の親でさえもできないことであります。しかし、神はそれを知っていてくださっている。それほどまでに、私は神にたちを大切にしてくださっているのです。このことをキリスト教では、神の無償の愛、無条件の愛、神の愛は永遠などと表現しますが、どのように言葉を尽くしてもこの尊い恵みを言い表し切れるものではありますまい。
校長 大矢正則