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聖書朝礼 ラテラノ教会の献堂 【ペトロ・カスイ岐部】

投稿日2025/11/10

【朗読箇所 ヨハネによる福音書2章13節~22節】

 昨日、カトリック教会では、ラテラノ教会の献堂の祝日でした。ラテラノ教会。少し耳慣れない名前かもしれません。ラテラノ教会は、ローマにあるとても古い教会で、ローマ教皇の正式な司教座がある教会です。
 多くの人たちが、教皇様の司教座教会、つまりローマのカテドラルはバチカンのサン・ピエトロ大聖堂であると思っておられると思いますが、実はそうではありません。教皇の住居や儀式の中心地がバチカンであることは間違いありませんし、そこが世界的に有名な巡礼地であることも事実ですが、ローマ教皇の司教座がある教会、つまり、ローマのカテドラルは別にあります。それがラテラノ大聖堂なのです。
 ですから昨日は、そのラテラノ教会の献堂を祝って、教会では、今読んだ、イエスが神殿を清める場面が読まれたのです。

 さて、ラテラノ教会と日本との関係を語る上で、ペトロ・カスイ・岐部のことを外すことはできないと思います。

 皆さんは遠藤周作という作家をご存知だと思います。代表作『沈黙』は東星の読書感想文コンクールの課題作品でもありました。その遠藤が代表作『沈黙』を発表する6年前の1960年に発表した『銃と十字架』という伝記的小説があります。そこで描かれているのがペトロ・カスイ・岐部です。
 岐部は、1587年(天正15年)、現在の大分県で生まれ、カトリックの家庭に育ち、13歳でイエズス会の神学校(セミナリオ)に入り、外国語やキリスト教(ラテン語や神学)の基礎を学びました。
 1614年、日本でキリシタン禁教令が強化され、カトリック信者や神父様たち宣教師の追放・弾圧が進みました。岐部もこの時期、イエズス会の宣教師であったカルロ・スピノザ、フランシスコ・パシオらとともにマカオへと渡ります。
 岐部はしばらくマカオの神学校で学びましたが、日本人に対する差別的な取り扱いなどもあり、司祭になる道が閉ざされました。そこで彼は思い切ってローマに向かい旅立つことにしました。
 岐部はマカオを出発し、マラッカ・ゴアを経て、さらに徒歩でインド、ペルシャ、シリア、トルコ、ギリシャを経て、日本を出発してからおよそ8年をかけて、ようやくローマにたどり着きます。岐部は記録上、日本人として初めてローマに到達した人物とされています。また日本人として初めて聖地エルサレムを訪れたとも伝えられています。 岐部の行程は約3万キロにも及びました。ですから、日本人として初めて国際的な信仰の道を歩んだ聖職者ということにもなります。
 そして1620年、ローマのラテラノ大聖堂で、司祭叙階を受けました。 もちろん、ローマで司祭叙階を受けた日本人は岐部が最初です。また、ラテラノ大聖堂の祭壇でミサを捧げた最初の日本人でもあります。さらには、岐部は日本人として初めてヨーロッパでイエズス会に入会した人物です。
 司祭となった岐部は安全なローマに留まることもできました。しかし彼は、迫害に苦しむ日本の信者たちのもとへ戻らなければならないと考え、危険を承知のうえで帰国を志しました。1623年(寛永16年)日本へ向かう船に乗り、約16年ぶりに祖国へ戻ります。
 岐部の帰国後も日本国内ではキリシタン弾圧は激しく、東北方面で潜伏中、密告により捕縛されました。岐部は激しい拷問に屈することなく信仰を貫き通し、日本人司祭として初の殉教者となりました。1639年、岐部52歳のときです。

 先ほど申し上げた遠藤周作の『銃と十字架』を読むと、遠藤が岐部に、信仰に生きる日本人としての原型を見出していることがわかります。彼の目に映る岐部の姿は、単なる宗教的英雄ではなく、苦悩しながらも神への忠誠を貫いた人間としての信仰者でした。この小説で遠藤は、岐部に深い愛着を持っていることがわかります。キリシタン教弾圧という過酷な時代においても、信仰を棄てずに生き抜こうとした日本人の心の力への敬意が見られます。信仰と人間性の矛盾や、神の沈黙は、遠藤文学の主要テーマでもありました。遠藤は岐部を、後の代表作『沈黙』へとつながる沈黙する神と試される信徒の原点を象徴する人物として描いています。

 人間は、信仰者としても、また人間としても、偶々そこに置かれた状況によって、強者にも弱者にもなりうる存在なりうる無力な存在なのだ。神はそれらをすべてご存知である。にもかかわらず、神は沈黙する。いや、神はご自身を犠牲にしてでも人を生かそうとする。踏絵を踏むことを躊躇する人間に対して、「踏みなさい」、「踏んで楽になりなさい」と囁く方である。決して沈黙しているのではない。『銃と十字架』は、代表作『沈黙』の原点であるといわれています。

 さて、今日読んだ朗読では、珍しくイエスが怒っておられる神殿での場面です。神殿は、人々が神に祈りを捧げる最も神聖な場所でした。子どもの誕生を喜ぶ親が、神への感謝を伝える場であったり、親しい人、特に家族を失った人々が悲しみの涙を流す場であったり、あるいは、若い男女がお互い愛の誓いを神の前で立てたり、人生に挫折した者たちが苦悶の中で光と力を求める場所であったり、さらには、罪を犯した人間が許しを請い悔い改めの祈りを捧げる場であったり、信じる者たちが共に神を賛美する場でもありました。
 ところが、今日の朗読によると、その神殿の中では、牛や羊が売られ、利ざや目的で貨幣の両替が行われ、神聖な場がいつの間にか利益を求める取引の場へと変わっていたのです。イエスはこの姿を御覧になり、心を痛め、怒りを顕わにしています。神殿の商人たちが商品を置いた台や、座っている椅子をひっくり返すほどだったといいます。そして人々から「こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と問われると、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」と告げられました。人々は、この言葉を耳にしたとき、目の前の神殿のことを指しておられるのだと受け取りました。
 けれども、イエスが語られたのは、人々が目にしている神殿ではなく、ご自身の身体のことを指すのでした。イエスはやがて御自身が十字架にかけられ、三日目に復活されることを予告したのです。因みに、神殿と訳されている言葉は、ギリシャ語の聖書では、「ナーオス」という言葉が使われています。イエスが、三日で神殿を建て直すことを、「三日でナーオスをなおす」と仰ったかどうかは定かではありませんが、このイエスの仰った神殿の建て直し、すなわち、人々が悔い改め、罪から解放され、イエスご自身という神殿を通して、人が自分の心の中にも神殿を発見し、そこにおいて神と人とが和解することこそ、自らが顕す最大のしるしであることを人々に告げたのであります。

校長:大矢正則

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