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聖書朝礼【ルカによる福音書6章39節~45節】

投稿日2025/3/3

 今日の福音箇所(ルカによる福音書6章39~45節)でもイエス様はたとえを用いて私たちに大事なことを教えています。
 まず、39節で、「盲人が盲人の道案内をすることができようか」と仰っています。ここで、盲人が喩えであることは言うまでもありません。ここでは、物理的に見えないという意味に留まらず、もっと広く目に見えない世界、倫理とか、宗教とか、そういった、いわば精神世界に対して心の目を閉ざしている人、他者や神に対して開かれていない人、意識的に自分を自らの殻の中に閉じ込めている人、さらに言ってしまえば、自分の物差しでしか様々な事象を捉えることができない人を指していると思われます。聖書の文脈でいえば、律法学者やファリサイ派の人々を指すのでしょうが、聖書は、今、ここで聖書を読んでいる人たちに、真理を告げ知らせます。自分の物差しでしか様々な事象を捉えることができないということは、ある意味で気の毒なことではあるのです。
 現代社会においては、多様性という、本来的には望ましい前提のもと、経済中心であったり、自国中心であったり、あるいはまた、自業自得であるとか、自己責任であるとか、そんな価値観をも許容してしまうといった本末転倒な状況も発生しています。自己責任とか多様性という言葉の持つ一刀両断的な、人の思考を停止させてしまう可能性を孕む言葉には、特に現代社会では気をつけなくてはなりません。誤解のないように言い添えておきますが、私は、多様性は尊重しますが、自己責任論には疑念を持っております。
 次に、「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太にきづかないのか」というイエス様の言葉。このようなたとえはあまり聞きませんが、言い得て妙です。この言葉は、人は他人の小さな欠点にはすぐに気づくのに、自分の欠点には気づかないものだというような意味と解釈されます。
 おが屑と丸太の大きさの差は歴然としています。おが屑は丸太から出てくる小さな木屑に過ぎず、目に入る大きさであり、しかも、目に入ると、目がチクチクし、本人にとっても不快なものです。自分にとっても痛いものを他者から指摘されると、それは嫌なことです。本人にとって、自分で取り除けないのであれば、誰かに手助けしてもらい、取り除きたいものですが、それが誰でもいいというわけではありません。小さい子どもならば、お母さん・お父さんになら安心して取ってもらえるでしょう。大人であれば眼科医に行こうと思います。自分にとって信頼できない人から、「あなたの目にあるおが屑を取らせてください」と言われても、それは引いてしまうでしょう。ましてや相手が丸太越しに、おが屑を取るような行動に出れば誰だって逃げます。
 いま、丸太越しにと申し上げましたが、聖書では「目の中にある丸太」というあり得ない比喩が用いられています。「目の中に丸太がある」とは、完全に視力を失った人を指すのでしょう。もちろん、これもまた喩えですから、ここは、自分の考えがまったくの間違いであるということに気づいていない、または、自分の考え自体が絶対化され、他の選択肢を取り入れようという感覚さえ持っていない人ということになるのでしょう。
 自分の考えが絶対化されていると申し上げましたが、この自己絶対化こそが、人間を誘惑する、原罪の原型であると言っていいでしょう。原罪の由来である創世記における誘惑の場面。なぜ人間は園の中央に生えている木の実を食べたいという欲望にかられたのか。それは神のようになりたいという誘惑からでした。絶対者は神だけであるのに、自分が善悪を裁く絶対者になりたかった。そしていまなお私たちは自分を絶対化する誘惑にかられ続けている。
 神という絶対者を退けようとする態度。神様の足音を聞いただけで隠れたくなり、否定したくなる。挙句の果ては、お金こそが世を支配できるというドグマに自分自身が支配され、そのお金が自分にとって唯一の目的となり、他をすべて手段化してしまう。すべてが手段になると、人間に対する尊厳はもてなくなり、大いなる自然の豊かさも感じることができなくなります。この現象を自我の肥大化とも言います。これは、自我が大きくなりすぎて、客観世界が小さくなっていくことを指し、自我の過度な肥大こそが自分の目の中にある丸太の正体だと思われます。
自我の肥大という言葉は、エゴの過剰な発達のことです。エゴをごく簡単に説明すると、人の意識の中心であり、人が自分を「私」と認識する部分です。エゴは本来心全体のごく一部に過ぎないものですが、自我が肥大すると、本来心全体のごく一部でしかないエゴの働きが強くなりすぎて、たとえば集団的無意識など、他の心の構造部分が機能しない状態になります。偏った価値観しか持てなくなり、心が固くなってしまうのです。固くなった心は、人から自由だけではなく、世界をも奪ってしまいます。私たちが生きやすくなるためには世界が必要であり、居場所が必要です。したがって、私たちが生き抜くためには、自我の肥大化を防ぎ、柔らかな心を持つことが肝要です。柔らかな心は、人の悲しみや嘆きを聞き取り、刺のない言葉と温かな眼差しを育みます。
 自我が肥大した人間は、そもそも自分自身が生きづらい。固い心、刺々しい言葉、冷たいまなざしは、結局は他者から自分へと向けられてしまうものです。それはあなたを生かさない。
しかし、人間というのは罪を背負っているだけではありません。同時に生きる道が準備されています。歩む道が既に準備されていると言っても良いでしょう。そして、あなたが歩む道はあなたにしか歩めません。あなたの道を歩くことができるのは、まさにあなたただ一人なのです。あなたはただ一人であなたの道を歩むのです。心細いと思われるでしょか。無理だと立ちすくんでしまうでしょうか。大丈夫です。なぜなら、あなたにはあの方がついておられます。あの方とはイエス・キリスト様です。イエスは神です。その方はあなたとともに歩きたがっています。あなたが泣くときに共に泣かれ、あなたとともに笑われる方。あなたが怒りに震えるときは一緒に叫んで下さり、あなたとともに人をゆるされる。そしてあなたを愛し、あなたをゆるし、あなたの心を柔らかくしてくださる。そんな神様がいつでもあなたとともにいるのです。神はDoingではなく、Beingです。
 あなたが神に信頼を寄せ、祈り、感謝するならば、あなたの自我は肥大化することはありません。あなたの目の中に丸太が入ることもなく、おが屑さえも入らない。そして、これまで見えなかった世界があなたには見えてくるでしょう。
 人間とは、これほどまでに恵まれた存在なのです。

校長 大矢正則

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