朗読箇所:ヨハネによる福音書20章19節~31節
今日の朗読箇所では、復活したイエス様が弟子の前に現れた様子が語られています。いくつかの観点からお話ししたいと思います。
まずは、十字架につけられて亡くなったはずのイエス様が現れたとき、弟子たちはどんな状況にいたかということです。いま読んだ、最初のところ、(ヨハネによる福音書)20章19節の書き出しは、「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」とあります。つまり、自分たちの親分であったイエス様が殺された後弟子たちは、自分たちがイエス様の弟子であったので、同じようにユダヤ人、ここでは、祭司長、長老、権力者などを指すものと思われますが、そのユダヤ人によって、自分も処刑されるのではないかと恐れおののいて、家の戸に鍵をかけて引き込もっていたわけです。この場面では、イエス様が復活する前の弟子たちの心理状態を知ることができます。つまり、自分たちはイエス様の仲間だとは思われたくなかった。そういう心理状態でいたわけです。だから、誰とも会わずにすむように、家の戸に鍵をかけて引き込もっていたわけです。
しかし、そこに復活したイエス様が現れます。今度はこのときのイエス様の存在のしかたに注目してみましょう。何か気づきますか。再び今日の朗読の最初の方から引用しますが、「自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち」と書かれているのです。「イエスが来て真ん中に立ち」とあるわけですから、弟子たちとの位置関係が記載されており、ここからイエス様は何らかの姿を、言い換えると、Being(存在ですね)を持っていたわけです。けれども、ちょっと変ではありませんか。なぜならば、弟子たちの集まっていた家の戸には鍵がかかっていたわけですから、普通の肉体を持っていたのでは、つまり、復活前のように、通常の人間と同じような肉体を持っていたのならば、この家の中にイエス様は入れなかったはずです。しかし、イエス様はこの後で、十字架上で傷つけられた手とわき腹とをお見せになっている(同20節前半)。ということは、やはり何らかの形式での体をお持ちになって現れた、御復活されたということになります。その復活後のイエス様の体は私たちには想像しづらいものです。しかし、「弟子たちは、主を見て喜んだ」(同20節後半)と書かれている。つまり、これは、復活されたイエス様が、自分たちと一緒に旅をしながら人々を救いに導き、その後、十字架上で処刑されたイエス様と同一の方であるということがわかったということです。
ご自分がイエス様であることがわかった弟子たちに、イエス様はこういわれました。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(同21節)と。そして、イエス様は弟子たちに息を吹きかけたと書かれています(同22節)。日本語でも、「息のかかった人」という言葉があり、それは、たとえば、上司や先輩から、特にかわいがられている人のことを指します。これと同じかどうかはわかりませんが、いずれにしても、イエス様が弟子たちに息を吹きかけられたということには特別な意味が秘められています。なぜなら、それに続けてイエス様は弟子たちにこういわれたからです。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(同23節)と。すなわち、この言葉の意味は、これまで、神であるイエス様だけが、人の罪を赦すという権能を持っていたわけですが、このイエス様固有の権能を弟子たちにも分け与えたわけです。これはまさに、イエス様の弟子たちが、イエス様の使途に変わった瞬間の出来事を記述しているわけです。
ところで、これらの出来事が起こったとき、12人の弟子たちの中の一人であるトマスだけは、その場に居合わせませんでした。ですから、他の弟子たちが、「わたしたちは主を見た」(同25節前半)と言っても、トマスは、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」(同25節後半)と言って、イエス様の御復活を信じませんでした。すると、8日後、今度はトマスも一緒に弟子たちと集まっているところに、同じように「イエスが来て真ん中に立ち」(同26節)ました。そして、トマスに次のように言われます。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(同27節)と。するとトマスは、「わたしの主、わたしの神よ」(同28節)と言って、イエス様が復活されたことを信じます。因みに、ここには、実際にトマスがイエス様の手の釘跡に指を入れてあり、わき腹に手を入れたりしたかどうかは書かれていません。おそらく、トマスは、他の弟子たちと同様に、イエス様を見ただけで、それが復活したイエス様であると信じたのでしょう。そんなトマスにイエスは言います。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と。
さて、この今日の朗読の最後の言葉は大変重要です。
しばしば、神や仏を信じない人たちは、それらを信じる人に対して、「あなたはなぜそんなものを信じるの?見たことがあるの?」と言ったりします。しかし、見えるものは信じる対象にはなり得ません。それは、そこにそれがあることを事実として認識できるからです。信仰とは、見えるものが対象にはなり得ません。つまり、今見えている事実は信仰とは無関係なのです。信仰の対象になり得るのは、見えないものに限られます。ですから、神は偶像崇拝を固く禁じています。したがって、イエス様もまた、「見ないのに信じる人は、幸いである」とトマスに仰ったのです。
わたしたちもまた、幸いな者となれるように、見ないのに信じるという恵みをいただけるよう祈りましょう。
校長 大矢正則