世界のカトリック教会は、復活の主日から数えて50日目に当たる昨日、聖霊降臨の祭日を祝いました。いま、ヨハネ福音書が朗読されましたが、教会では日曜日には、他に二箇所、聖書が朗読されます。聖霊降臨の意味をよく知るためには、昨日の第一朗読で読まれた使徒言行録の2章1節から11節を読んでおくことは大事なことだと思いますので、皆さん、聖書の使徒言行録第2章を開いてください。
1節から11節までを読んでみます。
2:1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、
2:2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
2:3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
2:4 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
2:5 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、
2:6 この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。
2:7 人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。
2:8 どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。
2:9 わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、
2:10 フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、
2:11 ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
ここで大事なことは、聖霊を受けた弟子たちが、突然、たくさんの国の言葉を喋れるようになったことではありません。そうではなく、あらゆる国の人が、福音を、他人事としてではなく、自分事として受け取ることができるようになったということです。
福音は、一部の人にのみ伝えられるべきものではありません。ここに書かれているように、福音は、国や民族に関係なく、すべての人に対して伝えられるべきものだということなのです。思いっ切って言い換えると、福音が広められたことによって世界は一つになったと言っていいでしょう。
これが聖霊降臨の意味ですが、このときまで、これほどまでに神様が一人ひとりの身近に来てくださったことはありませんでした。阿部仲麻呂という神父様は、この聖霊降臨の出来事を、「神が全力を尽くして人間のほうへと歩み寄る」という意味があり、「究極のへりくだり」であると述べられています(教友社『使徒信条を詠む』186頁)。かつてイエスをこの世に人として送ってくださり、十字架上の死によって、人々の罪を贖い、復活させることによって、愛が死に打ち勝つことを示して下さった父なる神は、主の昇天によってイエス・キリストをご自分の元に戻された後、今度は、聖霊という、ある意味では、イエスよりも身近な私たちの話し相手を、この世に遣わされました。それが、聖霊なのであります。
聖霊は、今日の福音朗読でもあったように、私たち一人ひとりの弁護者となったのです。弁護者とは、まさに弁護士のような存在です。法律を駆使して私たちを弁護してくれるのが弁護士ですが、ここで、聖霊が弁護者と呼ばれているのは、この方、つまり、聖霊という方は、霊によって、私たちの心に寄り添い、自分一人では解決できないような問題を、自分に代わって解決に導いてくれる、そんな存在です。
いま、私たち一人ひとりに聖霊という弁護者がついています。この弁護者は、一人ひとりの人間に寄り添っていながら、同時に、他の人の聖霊と全く同一のものです。違いは、どこまでもその人の味方でいてくれるということです。仮にその人が悪いことをしたとしても、道を誤ったとしても、一緒に付いてきてくれて、本当に人がピンチの時には、先導して道案内をしてくださる方。それが、聖霊です。
さあ、神様が全力で降りてきてくださり、歩み寄ってくださった賜物である各自の聖霊の助けを借りて、私たちも遜って、謙虚に生きてまいりましょう。
校長 大矢正則