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聖書朝礼 5月17日 主の昇天ーーー神の右の座に

投稿日2021/5/17

【朗読箇所】マルコ16.15~20

【校長講話】
 カトリック教会は、昨日、「主の昇天」の祭日を祝いました。聖書朗読箇所も、イエスが、御父によって、天に上げられる場面と、その前の、弟子たちを派遣する場面からなっています。
 旧約聖書の『コヘレトの言葉』という知恵文学には、「何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」(3.1)とあります。なかなか、興味深い知恵文学ですので、少し長めに引用しておきます。『コヘレトの言葉』の3章1節から11節です。

3:1 何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
3:2 生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時
3:3 殺す時、癒す時/破壊する時、建てる時
3:4 泣く時、笑う時/嘆く時、踊る時
3:5 石を放つ時、石を集める時/抱擁の時、抱擁を遠ざける時
3:6 求める時、失う時/保つ時、放つ時
3:7 裂く時、縫う時/黙する時、語る時
3:8 愛する時、憎む時/戦いの時、平和の時。
3:9 人が労苦してみたところで何になろう。
3:10 わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。
3:11 神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。

 新約聖書の中に、これだけ文学的な箇所はなかなか見つかりません。『コヘレトの言葉』は、文学としても大変面白い書です。
 さて、何事にも定められた時があるということですが、こうした視点からみると、イエスの死も、復活も、そして、今回の昇天も、御父呼ばれる父なる神がお定めになった時にしたがって実現したことと言えましょう。さらに今回の朗読箇所だけを見てみても、それぞれ定められた順にことが起こっています。つまり、イエスは天に昇って、御父の元に帰って行く前に、弟子たちを、全世界に派遣します。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」と15節前半に書かれています。これは、当時のユダヤ人に向かってイエス様が仰った言葉ですが、当時のユダヤでは、自分たちだけが、特別に神に選ばれたという選民思想が強かったわけですから、この「全世界に行って」というイエス様の命令は、革新的で驚くべきものでした。しかし、そのようにイエスは弟子たちに命令します。イエスの命令はいつでも恵みです。つまり、権力者でも何でもない、それどころか、弱虫だった弟子たちに、「世界中に行って」という大きな大きな使命が与えられたのですから、やはり恵みでしょう。
「人は使命感に生きるときにこそ生き甲斐をもって幸せに生きることができる」と言われていますから、弟子たちにとって、「全世界に行って」、しかも「すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」という命令が下り、こうした使命が与えられたのですから、恵みそのものです。実際に弟子たちはその後、世界中に出かけて行き、福音を述べ伝えたのですから、生きがいを持ち、幸せに人生を送ったことでしょう。それが、たとえ、最後が殉教であったとしても、それは、弟子たちの望むところだったに違いありません。
 「福音を述べ伝えなさい」の後で、次は「洗礼」の話が出てきます。最初に時の話をしましたが、何事にも時があるということは、何事にも順序があるということです。ですから、まずは、「福音」、そして、「洗礼」なのです。
 ところで、皆さんは、今日の朗読箇所の「洗礼」に、「バプテスマ」とカタカナでフリガナが振ってあることに気づかれたでしょうか。この「バプテスマ」の意味ですが、それは、「身を沈める」という意味です。つまりは、低いところに立って物事を見るということになります。「洗礼」と訳されている「バプテスマ」の動詞形「バプティツォマイ」の本来の意味が「身を沈める」です(本田哲郎『聖書を発見する』45頁)。
 そうすると、人間は例外なく、世の主宰者、救い主イエス・キリストといつでも親しく話し合うことができるという『福音』を知った私たちは、今度は、低みに立って、そこに軸足を置いて、生きていくことが求められているといえます。
 弟子たちを全世界に派遣した直後、イエスには、天に昇っていく時が待っていました。これで、ユダヤ人としてお生まれになって、死と復活を経て、全世界の救い主となったイエスの、この世での、つまり、復活の体も含めて、目に見える世界での生涯は完成となります。そして、御父である神の右の座に、同じ神として、お着きになったのです。
 考えてみると、イエスの生涯こそは、使命感に満ちた幸せな生涯だったのかもしれません。私たちも、人となってこの世を生き切ってくださった方の生き方は手本になるかもしれません。しかし、それが、あまりにも遠く感じる私たちです。そうしたときに、具体的な聖人の生き方は手本になります。また、私たちには、創立者・フロジャク神父様という手本がいます。創立者・フロジャク神父様の、ご自身の故郷ヨーロッパから見たら遠い日本の地で、苦しんでいる人、悲しんでいる人、絶望している人たちの立場に立って、生き切った生涯は、希望と勇気を私たちに与えてくださいます。
 私たちの学園の創立者に感謝いたしましょう。

校長 大矢正則

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