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後期始業式 校長講話(放送)

投稿日2020/10/1

 工藤直子さんという詩人の作品に「あいたくて」という詩があります。詩集『あ・い・た・く・て』(大日本図書 1991年)などに載っています。

 「だれかに あいたくて なにかに あいたくて 生まれてきた そんな気がするのだけれど」。この第一連を読むと、人は一人ひとり個別の使命を与えられて(あるいは、担わされて)生まれてきていることを改めて感じます。ただ、その使命が何なのか、あるいは、その使命がわかっても、なぜそれが自分に与えられたのか、担わされたのか、なかなか自分にはわかりません。第一連が「そんな気がするのだけれど」で終わっているのは、そうした感覚からでしょうか。

 第三連は「それでも 手のなかに みえないことづけを にぎりしめているような気がするから それを手わたさなくちゃ だから あいたくて」。ここからは、その使命がわからなくても、生き続ける人の健気さが伝わってきます。翻って、生き続けなければならない人の艱難も感じます。

 それにしても人は何のために生きるのでしょうか。一般論ならたくさんあります。しかし、私たち、人が知りたいのは自分という個人に与えられた使命と、その意味なのではないでしょうか。

 精神科医で随筆家の神谷美恵子さんは『生きがいについて』という本で、「人が生きがいを感じるのは、使命感に生きるときだ」という主旨のことを書かれています。その通りだと思います。どんな使命感でもよいのです。そして、それは一人ひとり異なります。場合によっては、苦しみすら使命感になりうると神谷さんはいいます。ただし、そこに意味を見出すことが肝要です。それこそが難しく、長い年月をかけて見出す努力をすることが私たちに課せられているのでしょう。

 前世紀末頃から、さまざまなものの崩壊や破壊が進んでいます。大気、氷河、イデオロギー、経済、金融、雇用。改革という名の教育の破壊、マス・メディアによる個の破壊。そして、今、私たちは新型コロナウイルスの脅威にさらされ、ある意味で不自由な新しい生活様式を始めようとしています。こんな時代だからこそ、私たちは普遍的な価値観を貫きたいと思います。それは、「あなたはわたしの愛する子」(マルコによる福音書 第1章11節)と父なる神がイエスに呼びかけた、あの普遍的なメッセージが、私たち一人ひとりにも例外なくいつも届けられているという真実です。

 新型コロナの席捲下にあっても、あらゆる場面において、生命を最優先させることがこれからの原理として更に深く求められると思います。なぜなら愛とはいのちを守ることだからです。競争や選択の時代は、既に終わっていることを知る必要があります。今は多様と共生の時代です。

 そうなると、第二連「おつかいの とちゅうで 迷ってしまった子どもみたい とほうに くれている」の中に出てくる「おつかい」が、ちょっと切ないのですが「人生」と読めてなりません。

 日常の細々したことでも、人生そのものでも、途中で迷ってしまい途方に暮れることはしばしばです。そんなときにこそ私たちは「あなたはわたしの愛する子」という私たちを生かす神の根本的なメッセージに耳と心を傾けたいものです。

 私たちは神様に「あいたくて」しかたない存在なのかもしれません。そして、それ以上に、神様は私たちに、「あいたくて」しかたないお方なのではないでしょうか。そして、神と私たちの出会いの場は、天の上ではなく、この地上の人々の間にある神の国なのであります。

校長 大矢正則

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