みなさん、今読んだマタイによる福音書の言葉を、どのように受け止めたでしょうか。
イエスはこう言われました。「わたしが来たのは、律法や預言者を廃止するためではない。完成するためである。」
この言葉は、一見すると少し厳しく感じられるかもしれません。「律法学者やファリサイ派の人々以上の義がなければならない」と言われると、自分には無理だと思ってしまう人もいるでしょう。
けれども、イエスが語っておられるのは、完璧さを求める厳しさではありません。神の前で、誠実に生きようとする姿勢そのものを大切にしておられるのです。
福音書をよく読むと、イエスはいつも、表面的に正しい人よりも、弱さを抱えながらも神に向き直ろうとする人のそばにおられます。
律法は、人を縛るためのものではなく、人を生かすためのものです。だからこそイエスは、律法を「守っているかどうか」よりも、「どのような心で生きているか」を問われました。
律法を守るとか、破るとかいうのは、何によって判断されますか。それは行動です。たとえば、人が血(血液です)をどう扱うかについて、聖書に沿って考えてみたいと思います。
旧約時代。律法では、「生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖い(あがない)の儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである。」(レビ記17章11節)とあるように、血は厳格に扱うように命じられていました。厳格に扱うということから派生して、聖書では、血を食べてはならないことや、地面に注ぎださなければならないことも定められていました。
すると、職業によっては、これを守っていたのでは仕事ができない職業がありました。例えば、皮なめしをする職人です。皮は古代から人々の日常生活や、戦(いくさ)においてなくてはならないものです。財布、鞄、ベルト、バッグ、戦に使う武具・馬具。皮はこのように必要不可欠である一方で、その製造プロセスについて、人々は目にしたくない、考えたくない、存在を認めたくないものでした。そこには、動物の死、あるいは殺生(せっしょう)、血、腐敗、悪臭など、人々にとって、避けたいものが凝縮されていました。
漁師も然りでした。聖書においても「ひれ、うろこのあるものは食べてよい」(レビ記11章9節、申命記14章9節)とされているように、魚は貴重なたんぱく質であり、また、良質の脂肪分や栄養素を含んでおり、人間の食生活に不可欠です。しかし、一方で、魚をさばいたり、血を抜いたりする作業は、穢(けが)れたことであるとみなされ、したがって漁師は、律法を厳密に守ることにのみ価値を置いている人々から差別を受けていました。
差別というのは恐ろしいもので、人を鈍感にします。高級な皮のバッグや財布やベルトを自慢しながら、その皮を血みどろになって作り上げた人々に思いが行かない。何千円、あるいは、何万円もする高級な魚料に舌鼓(したつづみ)を打ちながら、たとえば、最低賃金以下で働く現場の人々、加工工場で働く外国人を排除しようとする。排外主義がどれだけ外国人研修生を傷つけていることか、想像力が働かなくなる。
律法を守れない人たちの存在を、私たちはどう考えたらいいのか。いい物を身に着けたり、いい物を食べたりしている人々と彼らの関係性はどうなのか。動物の皮を加工する人や魚をさばく漁師たちは穢れた罪びとで、高級革製品を買い歩き、美味しい海鮮料理を味わう私たちは罪人ではないのか。
律法で規定されている罪を犯す人がいるのは、その上で胡坐をかいて、罪とは無関係な顔をしている者がいるからではないだろうか。そもそも罪を犯さない人がいるのだろうか。
いない筈です。罪を犯しているところを目撃された女性が突き出されたとき、イエスは、その女性を取り囲んだ大勢の群衆に対して、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言いましたが、そのとき群衆は、自分には石を投げる資格がないことを悟り、全員が立ち去ったと言います。しかも、年寄りから順に立ち去りました。つまりは、年を取るということ、長く生きるということは、それだけ多くの罪を犯すということなのです。ですから、人は他人に対して、あなたは罪人だとか、罪人はゆるせないとは言えない筈です。なぜなら、人はみな罪あるこの身を、神様からゆるしていただいているからです。
なぜ、神は人をゆるしてくださっているのか。それは実にシンプルです。神はその人の行動だけを見ているのではありません。神は、神だけは、その人のあり方を見ていらっしゃいます。Doingで評価するのが人、Beingで良しとするのが神です。神は人を評価しません。「良し悪し」を決めません。Beingをもって「よしよし」としてくださっているのです。だからこそ、私たちは「どのような心で生きているのか」を問われます。
失敗しても、くじけても、しくじっても、他人に迷惑をかけても、それを正直に打ち明ければ、「よしよし」と言ってくださる神様に、ありがとうと言うのか、放っておいてくれと言うのか。つまり、ゆるされた罪人として謙虚に生きるのか、ゆるしを拒否して暗闇を歩むのか。
みなさんは今、人生の大切な途中にいます。迷い、悩み、立ち止まることもあるでしょう。けれども、どうか忘れないでください。
神様は、あなたにしてほしいことがある。いや、正確に言えば、あなたにいてほしいと願っている。すべてをご存知で、あなたの罪もすべて知っていながらも、あなたと共にいたいと、あなたを探している。
日々の生活の中で出会う言葉や出来事が私たちを喜ばせることもあれば、悲しませることもある。苦しいときもある。いったい自分の身に起こっているこのことの意味は何なんだろうと恨み言を言いたい日もある。けれども、いつかふとした瞬間に、み言葉が、私たちの心を照らすことがあるでしょう。そのとき、私も皆さんも、神様が、私の、あなたの、人生の中で静かに働いておられることに気づくでしょう。
これからも、神に守られながら、それぞれの歩みを大切に進んでいってください。
校長 大矢正則