今日は『マルコによる福音書』13章の一部が朗読されましたが,このマルコ福音書13章は小黙示録とも呼ばれています。この箇所は,イエスが十字架につけられることになっていたエルサレムに入る前の最後の説教の中心箇所です。黙示録には黙示思想が記されています。黙示思想とは紀元前後の数百年にわたって,当時の宗教の中に広がっていた信仰です。その考え方では,当時の世は悪霊に支配されているけれども,それは神様のご意思ではないので,いつかそのような世には終わりが来て,悪人には神様からの永遠の罰が下り,正しい人には同じく神様からの救いが与えられるというものでした。例えば,旧約聖書では,『ダニエル書』という書物にそのような思想を見ることができます。このような黙示思想は,後に成立するキリスト教にも引き継がれています。しかし,キリスト教では,当時の黙示思想にはない新しい黙示思想を見ることができます。
それは,一つの新たな信仰なのですが,同時にそれは,二つの新たな事実をパラレルで,つまり,並行して表明していると理解することができます。
一つ目は,これまでの歴史上,一回きりのイエスによる人類に対する救いです。つまり,イエスという救い主,言い換えれば神の独り子の死と復活によって,人類は新たなフェーズに入り,すでに救いの歴史が幕開けしたという考え方です。
二つ目は,キリストは再臨するということです。この再臨がいつやってくるのか,どのようになのかは,わかりません。
しかし,例えば,『ルカによる福音書』と同じライターが書いている『使徒言行録』1章11節には,「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは,天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で,またおいでになる」と書かれています。ただし,ここに記されている「あなたがたが見ている同じ有様」といういい方については,十分に気をつけて読まなければなりません。なぜならば,このとき人々が見ていたのは,復活したイエスの姿であったからです。
何度かお話ししたように,復活したイエス様がこの世に現れたとき,多くの人々が,その方がイエス様であることに気がつきませんでした。あれほど傍で寝食を共にしていた弟子たちでさえ,幽霊を見ていると思って恐れてしまったり,何時間も一緒に道を歩いて聖書に書かれていることすべてを話してもらったりしたにも関わらず,その方がイエスだとわからなかったのですから,もしも,イエス様が再びやって来られたとしても,イエス様に一度もあったことのない私たちが,その方がイエス様だとわかるためには,よほど敏感でなくてはなりません。
では,私たちは何に敏感であればよいのでしょうか。それは,おそらく,他人の苦しみ,悲しみ,孤独さ,痛みに対する敏感さでしょう。共感できる心と言ってもよいでしょう。なぜなら,イエスほど人と同じ苦しみ,悲しみ,孤独さ,痛みに苛まれた方はおられなかったからです。それと同じ有様で,イエスは再臨されます。
今日の朗読箇所の最後は,キリスト・イエスの再来のときについて教えています。「その日,その時は,誰も知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存知である」。そして,今日読んだ箇所に次の節には,「目を覚ましていなさい」と続いています。そうです。目を覚ましていなければいけません。もちろん,これは睡眠をとるなと言っているのではありません。敏感でいなさいということです。この「目を覚ましていなさい」を「Look!」と訳している英語訳の聖書もあるそうです。lookという単語は,単に「見る」というよりも「目を向ける」という意味を持ちます。watchという単語が動いている物を目で追うイメージに対して,lookは意識的にじっと視線を向けるというイメージです。つまり,聖書のいう「目を覚ましていなさい」とは,止まっている何か,あるいは留まっている何かに意識的に目を向けよということになります。まさに,動けなくなって助けを求めている中にこそ,永遠の愛,あなたへの救いが留まっています。
人生,あるいは生活に疲れ果て,動けなくなって助けを求めている人々。そのような人々の中に愛がとどまっている。そこに神がおられる。私たちは,まさか,そんなところにキリストがいるとは思わずに生活してしまいがちです。実際に,人類の歴史の中に,救い主イエスが与えられたとき,なんとその方は最も弱い者,自分一人では動くことのできない赤子として,人々の中に現れました。そのとき,その赤子が救い主であることに気づいたのは,既に天使からそのことを知らされていた母マリアと養父のヨゼフの他は,貧しい羊飼いやと東方の異端とされていた占星術師たちでした。他の誰もその方が救い主だなどとは気づかなかった。中には,すぐに殺してしまおうと考えている権力者までいた。イエス様は私たちに,そのような生き方に鋭く警鐘を鳴らします。だから「目を覚ましていなさい」と仰っているのです。
私たちには,意識して見なければ見えないものがあります。そちらの方が,無意識のうちに見るものよりもずっと多いわけです。
聖書を読むと,イエス・キリストの再臨の前には,多くの偽キリストの出現し,戦争や戦争の噂が出てきて,民族や国どうしが対立し,飢饉や大災害などの天変地異の発生し,迫害が起こり,偽預言者が現れ,宗教的混乱が起こり,不法がはびこり,偽物の愛が語られ,聖地が乱暴者に占領され,偽の世界的宗教(例えば世俗化などもその一例かもしれません)が拡大するなど,様々なしるしが現れるとされています。これが絵空事かと言うと,いやいや実に現代社会を的確にとらえていることがわかります。
ですから,私たちは,目を覚ましていなければなりません。それは,他人の苦しみ,悲しみ,孤独さ,痛みに対して敏感でいることに他なりません。社会の底辺を這うように生きる人たち,あるいは,他人に迷惑をかけなければ生きていくことができない人たち,あるいは,皆さんの中で,いじられたり,いじめられたり,無視されたり,無実の罪を着せられて陥れられたりしている人たちがいたとすれば,その人たちの痛みに敏感であること。こうしたことが求められているのです。
校長:大矢正則