昨日、カトリック教会で朗読された福音書の中に「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」というイエスの言葉が出てきました。この言葉は聖書の中でも有名で、皆さんがiPadでお使いになっているジャパンナリッジで、「一粒の麦」と入力すると、日本国語大辞典にも、デジタル大辞泉にも、故事俗信ことわざ大辞にも掲載があります。たとえば、デジタル大辞泉には、「ひとつぶのむぎ」という言葉を引くと、「《新約聖書「ヨハネ伝」第12章、一粒の麦は地に落ちることによって無数の実を結ぶと説いたキリストの言葉から》人を幸福にするためにみずからを犠牲にする人。また、その行為。」とあります。このような意味で日本でも「一粒の麦」という言葉が用いられているわけです。日本国語大辞典では、「ひとつぶの麦」の意味として、「ひとりの人間。ひとりの犠牲によって、多くの人々が救われるという真理を示したイエス・キリストのことばによるたとえ。」とあります。聖書の世界では、この一粒の麦とは、イエスがご自身を指しているたとえなのです。つまり、イエス・キリストの死。これが一粒の麦の死に当たるわけです。そして、キリストの復活によって、多くの人の人生が変えられた。これを「多くの実を結ぶ」というたとえで話されたわけです。キリスト教の中心的出来事である、このイエス・キリストの死と復活のできごとは、フランシスコの平和を求める祈りの中で、「自分を捨てて死に、永遠のいのちをいただくのですから」という言葉でまとめられています。つまり、一粒の麦が地面に落ちて死ぬことを、フランシスコは自分を捨てて死ぬという風に捉え直しています。そうすれば永遠のいのちがいただけるのだと。
さて、この自分を捨てて死にとは、いったいどういうことなのでしょうか。
まず、最初に言っておきたいことは、このことは、自分の肉体的ないのちそのものを落とすことでは、全然ないということです。むしろまったくの正反対と言ってもいいでしょう。
イエス・キリストの場合には「自分を捨てて死に」とは、確かに肉体的な死でした。しかし、彼は受肉した神でしたから、父なる神によって3日後に「起こされた」のです。日本語で「復活」と言われているこの出来事は、イエスが自力でなさったことではありません。また、十字架につけられる以前と同じ肉的な肉体を持っていたわけでもありませんでした。彼は単に、父なる神によって、「起こされた」のです。それは、イエスが父なる神と同じく、愛そのものであったからなのです。イエスの肉的な体は死んだとしても、彼は父によって「起こされ」、新たな、いわば霊的な体をもって、弟子たちの前に現れたのです。しかし、私たちがイエスのように、3日後に父なる神に「起こされる」のか。それはありません。なぜなら、私たちはイエスと違って、誰も愛そのものではないからです。
では、私たちにとって、自分を捨てて死ぬとはどういうことなのか。それは、自分から出ていくということをさします。言い方を変えれば、肉的な自分から自由になるということです。平たく言い換えれば、誰にでもある自己愛、執着、こだわり、習慣といった殻を破って、新しい人となって外に出ていくことです。執着やこだわりを捨てることは、傷つき、悲しみの中を生きる人にとっては、辛いことです。ああ、あのことが失敗だった。ああ、あのことがなければと後悔している毎日は辛い。しかし、その中で生きる人にとっては、その執着やこだわりが、自分の全部のような気がする。傷ついた自分ではなくて、自分が傷そのもののように痛む。しかし、そういうときこそ、そういう人こそ、一粒の麦になってほしい。エゴイズム、執着、こだわり、習慣。全部、神様にお任せして、神様に奉げる。自分を明け渡す。これが、私たち人間にとっての一粒の麦の死を指します。このようにして新しくされた私たちは、新しい人として生きることができる。毎年、毎月、毎週、毎日、この瞬間にも、人間は新しくなることができる。実際、人間の細胞は、4年ですべてが入れ替わることが知られています。4年間で、人間は肉体的には別人になる。ですから、自分のエゴイズム、執着、こだわり、習慣にこだわることは無意味なのです。
私たち人間は新しい人になるようにつくられています。それなのに、必死になって、これまでの信念、古い恋人、古い習慣にすがりつき、古い人のままでいようとする。このことを人は辛いとか、しんどいとかいうのです。あなたが新しい人になることを阻止しているものは何か、この春休みには、それを考え、新年度は、新しい人となってここに集まりましょう。
今年の復活祭は、きりがよく3月31日です。
校長 大矢正則