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聖書朝礼 律法を守るとはDoingではなくBeingで

投稿日2023/11/6

 今日読まれた福音(マタイによる福音書23章1節~12節)は、宗教指導者たちへ警告を与える内容であり、また、わたしたちが、どういう人を目指して生きていけばよいのかが示されている箇所でもあります。

 今回もよくみられる律法学者やファリサイ派の人々と、本来の信仰のあり方を、イエスが比較して人々に話をする場面です。

 まず、3節において、イエスが、彼ら、すなわち、「律法学者やファリサイ派の人たちが言うことは、すべて行い、また守りなさい」と言っていることは注目に値します。イエスは律法学者と対立することが多いため、イエスは律法を軽視していると誤解されがちですが、実はそうではないのだということが、この一節でわかります。つまり、イエスは律法そのものについては、すべてを行い、守りなさいと、極めて律法を尊重する立場に立っているのです。では、イエスは当時の宗教指導者であった律法学者たちの何を指摘しているのか。それは「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。そのすることは、すべて人に見せるためである」(4節~5節)と書いてあるように、実に彼らが律法を守っていることの目的が、「人に見せる」ため、つまり「見られる」であるとしている点を指摘しているのです。
聖書における、ここでの、見られるとか見せるという言葉の言語は、「セアオマイ」という動詞で、「綿密に、驚きをもって観察する」という意味なのです。つまり、律法学者たちは、綿密に計画し、人々の目を引くように律法を実行しているということです。見られるための律法ですから、だれからも注目されないところでは、律法を守らないということです。

 さて、律法の中で一番大切な律法は何であったか覚えていらっしゃいますか?それは、マタイ福音書22章36節から39節にわたって、ここもまたイエスと律法の専門家の問答として、聖書には記されています。つまり、「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」という律法の専門家からの問いに、イエスは、「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」と答えておられます。つまり、律法の根幹は、神を愛し、隣人を自分のように愛せよ、ということなのです。

 さて、先ほどの「セアオマイ」、つまり「人に見せ、観察させる」ことが目的では、この神と人を愛せよという中心的律法を守ることができるでしょうか。答えは、ノーです。なぜならば、愛するということは、人が見ているとか見ていないとかに関係なく、その人の存在全体の思いと意思から出てくるものだからです。わたしは人が見ているからあなたを愛するなどということはあり得ませんし、いまは誰も見ていないからあなたを愛さないということもあり得ないのです。そうです。愛するということは、何か特別なことをするということではありません。それでいて相手のためなら自分のすべてのかけるという、行為というよりもあり方、つまりBeingなのです。

 それに対して、律法学者たちの律法の守り方は、Doingそのものです。人に見られているときだけの行いだからです。やったりやらなかったり、できたりできなかったりするのがDoingです。
 一方でBeingは連続性がある、その人の存在全体の生き方です。イエスが教える律法に生きるとはBeingなのです。生き方なのです。神を大切にして生きる。人を大切にして生きる。そして自分を大切にして生きるという生き方です。

 今日の聖書箇所がわたしたちに教えているのは、生きていくうえで大切なことは、Doingではなく、つまり、あなたが何かをするとか、何かができるとか、そんなことを度外視して、Being、つまり、あなたの存在全体が大事。究極的にはあなた自身は神に愛されるほど大切な存在なのだという、福音なのです。

校長 大矢正則

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