イエスは、洗礼者ヨハネによる洗礼をヨルダン川で受けた後、「霊」に導かれて荒れ野に行かれたと、今日読んだ4章第1節には書かれています。それは悪魔から誘惑を受けるためであったとも書かれています。そして、第2節では、40日間の断食をしたと書かれています。ここで、イエスはどんな誘惑を受けたのでしょうか。それは、3つの誘惑です。
一つ目は、「これらの石がパンになるように命じたらどうだ」という誘惑です。この誘惑は、イエスが40日間、40夜の断食で空腹を感じたときに来たと書かれています。肉体を持つものにとって、食欲は根本欲求です。悪魔は最初にここを突いてきました。肉体を持つものにとって、一番弱いところを悪魔は狡猾に突いてきたのです。この誘惑に対して、イエスはこう応えます。「人はパンだけで生きるものではない。神から出る一つひとつの言葉で生きる」と。
次に悪魔はイエスを神殿の屋根の端に立たせて、こう誘惑します。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」と。しかし、イエスは心を動かさず、次のように応えます。「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と。
更に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と誘惑します。しかし、イエスはこれにも動じません。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」と応えたのです。
一つ目の誘惑は、石をパンに変えてみろという物質的・肉体的な欲に対する誘惑。二つ目の誘惑は、神様の力を自分のために使えという誘惑。三つ目の誘惑は、権力や財力に対する誘惑です。
イエスはなぜ、このような根源的な欲求を満たすような、悪魔の誘惑に打ち克つことができたのでしょうか。それは、イエスの悪魔に対する応答のしかたをみればわかります。実は、イエスは、誘惑を試みる悪魔と対話していません。誘惑に対するイエスの応答は、すべて旧約聖書に書かれている神の言葉です。「人はパンだけで生きるものではない。神から出る一つひとつの言葉で生きる」は申命記8章3節に、「あなたの神である主を試してはならない」も同じく申命記6章16節に、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」もまた申命記6章13節に書かれている預言者を通して語られた神の言葉です。
私たちは、日常生活の中で、しばしば悪い誘惑に遭います。そうしたときに、それを乗り越えるにはそうしたらいいか、私たちはどう生きていけばいいのか、それを教えてくれるのが、今日の福音箇所におけるイエスの態度です。つまり、誘惑とはけっして対話しないということです。言い換えると、誘惑とは対等にならないということです。もう一度言い換えると、誘惑には近づかない、いや、引き込まれないといった方がいいかもしれません。
では、私たちは誘惑に遭ったときにどうすればいいのか。それは、神と共にいるということです。これもまた言い直すと、神様は私たちともにいてくださるということを忘れないということです。
誘惑は試練です。その試練にイエスは、神の言葉によって、つまり、神と共にあることによって打ち克ちました。これによって、イエスは、真の人類の救い主として高められました。試練は恵みへと変わったのです。
試練は私たちにもやってきます。しかし、よく覚えていてください。自分は弱いからダメだという誘惑を乗り越えること。試練を超えていくこと。それは、私たちを、そう、あなた方を、真の自分へと変えていきます。
Adversity makes a man wise.という英語の諺があります。「逆境は人を賢明にする」と訳すこともできますが、日本語ではこれを、「艱難汝を玉にす」と言います。艱難とは困難や苦悩のことです。「玉」とはピカピカに磨き上げられた石、そうです。宝石のことです。
苦悩を生き抜く人は必ず輝きます。
私たちの、さらには今、戦争や災害で苦しむ人の艱難、困難、苦労、苦悩が、いつか、ピカピカの輝く宝石となりますように、皆さんでご一緒に主の祈りをとなえましょう。
校長 大矢正則