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2月13日 聖書朝礼 講話

投稿日2023/2/13

 やさしい人と思われている人は実はその奥に厳しい一面を持っていると、私は思います。厳しいと思われている人が、実は大変やさしい人であったことに気付くという経験も、私はこれまでの人生で何度もしてきました。やさしさと厳しさは大変親和性が高く、同じ人の中に共存することが多いというのが私の考えです。やさしい人たち、あるいは厳しい人たちというのは、ある一線からはどんなことがあっても譲らないという境を持っているものです。それは、自分と関わっている相手のためにならないと思われることにはけっして与しないという点でしょう。

 少し視点を変えますが、「甘えさせる」ということと「甘やかす」ということの違いを考えてみましょう。例えば、親にとっては子どもを「甘えさせる」ことはとても大事なことです。子どもは親に甘えることができてはじめて親を信頼し、親を自分の秘密基地だと思えるようになります。実は人間が育つためには秘密基地が必要なのです。心理学では、この秘密基地のことを「愛着」、テクニカルタームでは、アタッチメントといいます。

 逆に、「甘やかす」ということは人をけっして育てません。したがって、親はけっして子どもを甘やかしてはいけません。

 「甘えさせる」ことと、「甘やかす」ことは、紙一重に見えて雲泥の差があります。例えば、わかりやすいように野生動物で考えてみましょう。「甘えさせる」ということと「甘やかす」ということを、ライオンを例にとって考えてみましょう。ライオンは集団で狩りをすることで知られていますが、狩りの集団に入るようになるのは2歳から2歳半くらいからであるというわれいます。その年齢に達するまでの子どもライオンは、親ライオンや群れのライオンから獲物を分けてもらって生活していきます。赤ちゃんライオンや2歳に満たない子どもライオンは、大人から餌をもらうのを待ちわびています。これが甘えるということであり、親からみれば「甘えさせる」ということです。そう考えると、ここでいう「甘え」というのは生きていくための本能にちかいものといえるでしょう。したがって、この「甘え」の獲得がうまくいかないと、他の個体と正常な関りをもって生活することができなくなってしまいます。それゆえに、甘えること、「甘えさせること」は重要なのです。これは動物から進化した人間においても同様です。

 一方で「甘やかす」とはどういうことでしょう。これもまたライオンの例で話をしますと、既に2歳半や3歳を過ぎたライオンに、親ライオンが、いつまでたっても群れでの狩りに参加させずに、親ライオンが取ってきた獲物を与え続けることです。実はこのようなことは自然界では起こりにくく、あったとしてもごく稀な条件下においてしか起こらないそうです。つまり、野生の世界では、「甘やかす」ということはなく、甘やかされて育つということもないのだそうです。「甘やかす」「甘やかされる」という関係ができ上ってしまうことは、即、その個体のうちの弱い方の死を意味するからでしょう。つまり動物の場合は「甘やかされる」と死んでしまうのです。

 さて、人間界ではどうでしょう。「甘やかす」ことも「甘やかされる」こともあり得ます。それはどういう状況下で起きるのでしょうか。それは、「甘やかす」ほうも、「甘やかされる」ほうも、自分と自分の仲間(この場合、親子ですが)だけが楽をすればいい、あるいは、自分たちだけが特権階級であると無意識のうちに思ってしまっているときに起こります。「甘やかされる」と誰であっても、そこで「甘やかされた」人は自立しません。生命力が衰えていきます。神さまから与えられたユニークな個性が、望ましくないほうに偏りを見せ、静かにいのちの炎を細いものにしていきます。先週の福音箇所の聖句を用いれば、本来、「地の塩、世の光である」はずの人間から塩気がなくなり、光も消え入るようになってしまいます。

 今日の福音で、イエスは「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(マタイによる福音書5章17節)と仰っています。そして、モーセの十戒についてイエス流の再解釈をどんどん進めていきます。結局、そこでイエスが仰っていることは、律法は表面的に守っても意味のないものであり、かえって、社会的に小さくされた人たちの生活や生命を脅かすものとなってしまう。たとえば、今日は引かれていませんが、安息日を守れという律法は、明らかに、羊飼いや漁師のような卑しいといわれていた仕事をしている人たちの糧を奪うものでした。というよりも、彼らは安息日を守れないがために、卑しいと差別されていたわけです。

 律法を守るということは、それを表面的に守るだけでは、人を傷つけるだけの場合が、実はあります。むしろ、表面的には卑しいしいと思われていた仕事についていた人でも、心の奥深いところで律法を守っていれば、律法は人を救い、また生かすかすものとなります。イエスが福音書全体で、律法について説いていることはそういうことなのだろうと思います。

 今日の冒頭で私は、「やさしい人と思われている人は実はその奥に厳しい一面を持っている」と話しました。こういう傾向を持っている人こそ、本当に厳しい人であり、律法を守る人と通底するものがあります。律法学者のように、律法を守れないからといって人を責めたりしません。

 また、ライオンの親が、その時期が来たら自分の子どもを狩りの集団に入れるように、「甘えさせる」ことはしても、「甘やかす」ことはしない人。立場を変えれば、甘えることはしても、甘やかされることをよしとしない生き方こそが、自らの持ち味、塩味を程よいものとし、世の光であるといわれるのにふさわしい生き方であるといえるのでしょう。

 最後に、もう一つ申し上げます。

 これまで、自分の生き方を誓って決めてきてしまったという人がおられましたら、改めてみましょう。それは自分に対して手枷足枷を自らかけてしまっているようなものです。自らを苦しめるだけのものとなります。なぜなら、「誓ってはならない」(マタイによる福音書5章34・35節)ことも福音だからです。

 さて、皆さんも連日の報道でご存知のように、今月6日にトルコ南部で発生した大地震から、今日でちょうど一週間になります。報道で知らされる、この地震による犠牲者の数は日に日に増えていき、今朝の報道では、トルコ、シリア両国で3万4千人に上ったといわれています。そして、この地震による犠牲者はさらに増えるものとも報道されています。

 今回のトルコ地震で犠牲になられた方、そして、家族や大切な人を失った人たちのために、今日は被災者のための祈りを、皆さんとご一緒にとなえたいと思います。

  被災者のための祈り(カトリック中央協議会)
父である神よ、
すべての人に限りないいつくしみを注いでくださるあなたに、
希望と信頼をこめて祈ります。
災害によって、苦しい生活を送り、
不安な日々を過ごす人々の心を照らし、
希望を失うことがないよう支えてください。
また、亡くなられた人々には、永遠の安らぎをお与えください。
すべての人の苦しみを担われたキリストが
いつもともにいてくださることを、
祈りと行動によってあかしできますように。
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

校長 大矢正則

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