「輝く光は暗い闇よ、暗い闇は輝く光よ」(岩波文庫)
「きれいは穢い、穢いはきれい」(新潮文庫)
「いいは悪いで悪いはいい」(白水Uブックス)
「暗いは明るく、明るいは暗し」(講談社世界文学全集)
「よいことはわるいこと、わるいことはよいこと」(河出世界文学全集)
これらの言葉を聞いて、ピンとくる人はピンとくるでしょう。実はこれらの言葉は、イギリスの劇作家シェイクスピアの4大悲劇の中の一つである『マクベス』の第一幕の冒頭に出てくる魔女の台詞で、原文では、Fair is foul, and foul is fair.となっています。フェアは、スポーツで使われるフェア・プレイのフェアですから、まあ、直訳すると、きれいなもの。好いもののことです。ファウルは、同じくスポーツなどで使われるファウルのことですから、悪いこと、間違ったことという意味です。この、Fair is foul, and foul is fair.というシェイクスペアが魔女に語らせる謎の台詞を、それぞれの訳者は最初に述べたように、「輝く光は暗い闇よ、暗い闇は輝く光よ」「きれいは穢い、穢いはきれい」「いいは悪いで悪いはいい」「暗いは明るく、明るいは暗し」「よいことはわるいこと、わるいことはよいこと」とそれぞれ苦心して訳したわけです。この中で、Fair is foul, and foul is fair.という文章の訳として、最も直訳に近いのが、「よいことはわるいこと、わるいことはよいこと」と「いいは悪いで悪いはいい」でしょう。しかし、元の言語が用いられている地域の文化と、訳された言語が用いられている地域の文化の違いを考慮すれば、翻訳では直訳が最も優れているとは限りません。その文化的背景も考慮にいれて訳す必要性があります。その意味では、岩波文庫訳の「輝く光は暗い闇よ、暗い闇は輝く光よ」。この訳はなかなかよく考えられていると思います。因みに岩波版のこの訳は日本を代表する劇作家の一人である木下順二によるものです。
さて、今日の朗読では、「二人の人が祈るために神殿に上ってきました。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人」(ルカ18.10)でした。ファリサイ派の人は、自分たちのやっていることは正しいと思って生きている人たちでした。つまり、前半で引用したシェイクスピアの言葉を借りれば、自分たちを「fair」な人間だと認識して生きていたわけです。実際、今日の朗読の中でも、『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します』(ルカ18.11)と祈っています。その上で、律法にさえ定められていなかった『週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています』(ルカ18.12)とまで付け加えて、自分たちの正しさを神様に向かって強調しています。
一方で徴税人はどうでしょう。徴税人は当時のユダヤの世では職に就くこともできない惨めな人たちで、しかたなくローマの手先となり、ユダヤ人から税金を取ってローマに収めていました。徴税人はその途中で、幾許かお金を得て、ローマに収めていました。もちろんそれはずるいことです。再びシェイクスピアの言葉を借りれば、明らかに「foul」だったわけです。しかし彼らはそうしなければ生きていけないほど社会の底辺に位置していたわけで、だからこそ、徴税人はイエスが来たとき、「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら」(ルカ18.13前半)言いました。『神様、罪人のわたしを憐れんでください』(ルカ18.13後半)と。神に自分たちの罪を認め、ゆるしを乞うていたわけです。そんな徴税人のことを、イエスは「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」(ルカ18.14)と断言します。義はfairです。つまり、人の目から見たらfoulそのものだった徴税人が、神から見たらfairだというわけです。
今日の福音は、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」と括られています。これはまさしく、Fair is foul, and foul is fair. ということになるのではないかと私は思います。
校長 大矢正則