今日の福音朗読は、イエスのたとえ話の一つで、金持ちと貧しい人・ラザロの話です。この金持ちは、いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていたと書かれています。それに対して、貧しいラザロは、この金持ちの食卓から落ちるもので腹を満たしたいものだと考え、この金持ちの家の門前に、痛々しい体で横たわっていました。
やがてラザロは死にました。金持ちもまた死にました。貧しき人であったラザロは天使たちによって、宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れていかれたと書かれています。ここに出てきたアブラハムという人は、新約聖書では「信仰の父」とされており、朗読個所の「宴席にいるアブラハムのすぐそばに」という表現は、神の国に招き入れられたことを伝えています。つまり、貧しい人であったラザロは、神に顧みられたのです。この点で、私たちが留意すべきことの一つは、ラザロは、新約聖書の伝える限りにおいて、貧しい人であったが、けっして義人であったとは述べられていない点です。つまり、この箇所が示唆していることは、神は必ずしも義人を救うのではなく、それよりも優先して貧しい人を救うということです。
一方、金持ちも死んで葬られました。今回の朗読個所では、「金持ちは陰府でさいなまれ」とありますが、これらの描写は、この聖書が書かれたころの人々の来世に関する考え方に基づいたものであり、イエスの意図は、死後の世界を具体的に描写することにはありません。だからと言って、ここの描写は無視してよいというわけではありません。ここで、イエスは何を語ろうとしたのか。それを少し見ておきます。
まず、死後の宴席においては、金持ちからは、アブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えたということです。そして、金持ちは大声でいます。「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先に水を浸し、私の舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。」と。
この世で生活しているときに、金持ちは、門前にいたラザロに見向きもせずなんの施しもしませんでした。なのに、今度は立場が逆になると、指先の水一滴だけでも、ラザロを遣ってよこせというわけです。ここで私たちが思い出すのは、「この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」というマタイ福音書25章45節の有名な言葉です。考えてみれば、この金持ちは、もしかしたら、家庭内ではよき夫であり、よき父親であったのかもしれません(2003年 森一弘著 サンパウロ刊『みことばの調べC年』p.104参考)。仲間内では愉快な人物だったかもしれません。いわゆる善人だったかもしれないのです。しかし、ただ一点、自分の家の門前に横たわっていた貧しい人・ラザロの存在を無視したことによって、彼は厳しい裁きを受けることになったのです。門前に横たわる貧しいラザロに鈍感であったことが問われたのです。
このように、悪意がなくても、鈍感はときには罪になります。皆さん、鈍感に過ごしていることはありませんか。もし皆さんが鈍感になりたくなかったら、自分の周りにラザロを探すことです。ラザロという名前の意味は「神は助ける」という意味です。神は今でも大勢のラザロを私たちの周りに遣わし、私たちが彼/彼女に敏感に応えることによって、私たちを神の国へと招いてくださっているのです。
だからこそ、イエスは今回のたとえ話において、金持ちは単なる形容詞の「金持ち」と抽象的に呼んだのに対して、貧しい人には「ラザロ」と名前を付け、その名前を5回も繰り返して用いているのです。
あなたの一番近くにいるラザロの存在に敏感であってください。
校長 大矢正則