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聖書朝礼 待降節第一主日

投稿日2021/11/29

 教会の暦では、昨日が1年の始まり。それは、同時にイエス様がこの世にお出でになるのを待つ待降節の始まりでもあります。そのイエス様を待ち望む待降節の初めに読まれた福音書は、イエス様のご降誕であるクリスマスとは程遠いお話でした。それは、イエス様がこの世に再臨されるときの話であったわけです。

 実は、待降節には二つの「待つこと」の意味があります。一つは、実際に約2千年前、神の子、救い主がこの世にお出ましになった、いわゆる、クリスマス。つまり、赤子としてのイエス様のお誕生を祝うことを待つことの意味です。そして、もう一つの「待つこと」の意味は、この世の終末、つまり、世の終わりがきて、神の全面的な支配が来ることを待つことの意味です。待降節の始まりとして読まれた今日の福音書は、その後者の方の「待つこと」についてイエスご自身が語られたみ言葉です。

 そのみ言葉の中で、注目すべき言葉は、34節の「その日が不意に罠のようにあなたがたを襲う」という記述です。この言葉は、共観福音書であるマルコによる福音書とマタイによる福音書にはありません。今日読んだルカによる福音書独特のメッセージです。私たちはこの意味を深く理解しなければなりません。

 そのためには、この世の全き支配者である神が、いったい本当はどういう方なのかを思い出す必要があります。それは、イエスの生涯を見ればわかります。イエスはけっして、人々の考えるような王ではありませんでした。そのことは、先週の朗読で確認したばかりです。最も弱い、人の助けを完全に借りなければ生きてゆくことさえできない赤子として生まれ、荒れ野では40日間に亘って弱き存在としての試練を受け、生涯は、誰が父親かもわからない差別される側の存在として、常に小さくされた者に寄り添い、最後は無残にも十字架上で処刑されてしまったお方。その方を、私たちは神として認めているのです。

 もし、再臨する救い主が、誰の目から見ても、わかりやすくて、たとえば、人にもどんどんお金をくれるような、食べ物でお腹を満たしてくれるような、楽しいゲームを毎日させてくれるような、そんな王であったのなら、誰の目にも目立つでしょう。ひょっとしたら人々はそういう王に引き寄せられてしまうかもしれません。しかし、そのような存在は救い主ではありません。なぜならば、まったくイエス・キリストと連続性がないからです。イエス・キリストとの連続性がないということは、神とも繋がっていないということです。再臨する救い主は、イエス・キリストと、そして神とつながっている存在、三位一体の考え方で言えば、その繋がっている方も神そのものです。
 その救い主である神は、不意にやってきます。いや、もう、そこまで来られているのかもしれません。その方は思いもよらない方法で私たちにその存在を知らせるのだと思います。イエスが被差別者、つまり、差別される側の方であったのであれば、再臨の救い主もまた、そういう方として私たちの前に現れるでしょう。たとえば、あらゆる意味で弱く憐れな子どもであったり、仕事に就くことの出来ない人々であったり、社会の側に彼らを寄せ付けない障害があるために、障害者と呼ばれる人であったり、そんな人の側に、不意に救い主は顔をのぞかせるのです。その不意に顔をのぞかせる救い主を見逃さないためにも、今日の朗読にあるように、私たちは目を覚ましていなければなりません。もちろん、これは睡眠をとってはいけないということではありません。今日の話の文脈でいえば、目を覚ましているということは、弱者に対して敏感な姿勢でいなさいということです。逆に目を覚ましていない状態というのは、弱者が目に入らず、金銭的な豊かさや、名誉や地位にばかり目が行く生き方を指します。

 目を覚ましていましょう。そうすれば、教室の中の風景も違って見えることでしょう。それは、あなたの生き方を大きく変えることでしょう。

校長 大矢正則

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