今日の朗読箇所の中の書き出しにある「向こう岸に渡ろう」でありますが、これこそカトリックの勧める生き方だといえます。つまり、相手の気持ちを考え、相手の立場に立って物事を考える。「向こう岸に渡ろう」という言い方で、そういうことをイエス様は弟子たちに、そして私たちに促しています。
しかし、これはなかなか大変な生き方です。ある意味で、相手によって自分の生き方を変えなければならない場合もあるからです。にもかかわらずイエス様はそれを勧めました。しかし、そうすると朗読箇所にある通り嵐が起きます。激しい突風も起き、水浸しになるとも書かれています。
それでも、イエス様は弟子たちと同じ舟の艫(とも)で呑気に眠っているといいます。この姿はいったい何でしょう。ここにイエス様が私たちに求めたものが隠されています。イエス様は信頼せよと私たちにメッセージしておられるのではないでしょうか。だからイエス様は眠っておられた
向こう岸に渡る大嵐の中、狼狽える弟子たちをもっと不安にする行動は一緒に狼狽えることです。しかし、イエス様は正反対の行動を採られました。なんと眠っていたのです。これはまさに、どんなことがあっても大丈夫だから、私を信頼せよというメッセージに他ならないわけです。
ところで、弟子たちが向こう岸に渡る間、なぜこのようにイエス様が呑気に安心させるような行動を採ったのかということをもう少し考えてみましょう。
ここで、「向こう岸」とは、異邦人であるゲラサ人の地であったのです。つまり、向こう岸は異邦人の地。一般的には危険地帯であります。しかし、イエス様という方ははどんな生き方をした人だったでしょうか。あるいは、イエスを最初に受け入れた人たちはどんな人だったでしょうか。それは、イエス様を含めて社会の中にあって差別される側の人達でした。
女、重い皮膚病患者、徴税人、異邦人などです。そしてイエス様御自身も生まれる場所さえなかった差別される側の方でした。キリスト教とは、それらの人たちの中に光がある。神の力が働くということを教える宗教なのです。
したがって、異邦人のいる「向こう岸」に渡ることは、光を求めていくこと、神と出会いに行くことだったのです。だからイエス様はそれを弟子に勧めました。
イエス様はこれから起こる良いことを知っていたので、嵐に揺れる舟の中でも安心して眠り込んでいました。しかし、弟子たちには無理でした。舟が水浸しになれば沈没するのではないかと不安で不安で。まさか、イエス様のように眠れる筈がない。
ここで、船は、私たち人間の集まりを象徴しており、海は悪の象徴として描かれています。今日、私が乗っている舟も,毎日毎日とても揺れます。もちろん、安心して眠ってなんぞはいられないものです。しかし、そうであればこそ、イエス様を見習って眠りたいものです。
そして、向こう岸に渡りましょう。ただし、それはあの世ではなく、この世の向こう岸に限りますよ。眠っている間に着いてしまいます。
校長 大矢正則