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聖書朝礼 キリストの聖体

投稿日2021/6/9

キリストの聖体

 世界中のカトリック教会は、昨日、キリストの聖体の制定をお祝いしました。キリストの聖体の制定とは、今日の朗読箇所にあるように、イエスが十字架に向かう前夜の最後の晩餐における以下の場面です。マルコ福音書では14章22節から24節に当たります。読んでみます。

14:22 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」
14:23 また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。
14:24 そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。

 教会では、このことを「聖体の秘跡」と呼びます。秘跡とは、「目に見えない神の恵みを、目に見える形で表現したもの」を指します。教会が定める秘跡は全部で7つあり、この聖体の秘跡の他には、洗礼の秘跡、堅信の秘跡、ゆるしの秘跡、病者の塗油、叙階の秘跡、結婚の秘跡があります。これらの中でもご聖体の秘跡は、キリスト教に中心的な秘跡です。

 私たち普通の人間と、人間の姿となって降りてきてくださった神であるイエス・キリストとの決定的な違いは、私たちが、命あるものを食べなければ生きられないことに対して、イエスは、自分自身を私たちの食物とし、飲み物とされたということです。そんな馬鹿げたことがあるものかと思われる方もおられるかもしれませんが、それは、イエスを、私たちと同じ人間としてしか見ていない場合に陥ってしまいがちな落とし穴です。確かに、イエスは赤子としてお生まれになり、無力でした。しかし、それは先週お話ししたように、三位一体の神が、人と一緒にいたいと思うあまり、また、人と一緒に成長したいと思うあまり、赤子の姿でこの世に降りてきたということであって、その赤子の本質は神であり、救い主であるわけです。

 したがって、キリストは、人がただ生きるだけでなく、神と共に一緒に生きるものとなるために、食べ物となり、飲み物となってくださったのです。ここでもやはり、人間と徹底的に一緒にいたがる神の本質が現れています。

 重い皮膚病患者に向かって「清くなれ」と言ったとき、その人は清くなり(マルコ1章41節)、死んだ娘に「起きよ」と言ったとき、その死者がよみがえり(同5章41節)、嵐に向かって「静まれ」と叫んだとき、一瞬にして海を静めた(同4章39節)イエスの、「絶対的信頼に値する力強い言葉により、(イエススは)パンとぶどう酒の根本存在を自分自身の体と血に変える。それは、分け与える食物によって、自分自身を私たちに与えるためである」(P・ネメシェギ『キリスト教入門』274~275頁)のです。イエスは、私たちが、パンとなられたご自身をいただくことによって、新たに生きなおし、今度は、キリストをいただき、キリストとなった私たちが、新たな誰かに、新しい命を吹き込むことをお望みになっておられます。

校長 大矢正則

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