【朗読箇所】ヨハネ福音書 10章11節~18節
【校長講和】今日の福音で、イエスは、ご自身を、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」と自己紹介します。羊飼いは当時、罪人が就く仕事であると考えられていました。なぜなら、羊飼いは、火を焚いてはいけない決まりになっている安息日にも、夜通し羊の番をするために火を焚いていましたし、安息日はいつも羊の番をするために働かなくてはなりませんでした。このように安息日を守れない職業についている人たちを、当時のユダヤでは罪人とみなしていたのです。
また、今日の朗読箇所の直前7節では、「わたしは羊の門である。」とも仰っています。羊の門とは、羊たちが囲いの中に入る門のことです。この門は、羊たちが狭いところに入る習性を利用して作られているため、大変狭い門です。したがってその門には、羊の毛がいっぱいくっついています。それどころか糞や尿もへばり付いていて、人から見るととても汚れているものです。どうしてイエスはそんなものにご自分を例えたでしょうか。
なぜ、イエスは罪人や汚れたものにご自身を例えられたのか。それは、第一には、イエスという救い主、そして神の本質がそういうものであるということを人々に教えるためでした。そして第二義的には、イエスという方が、いまそのような方、つまり、羊の門のように汚れてしまった方、羊飼いのように罪を犯さざるを得ないで生活している方の中にいるということをお示しになるためでした。これは、大変、意外なことかもしれませんが、キリスト教の救い主は、そのように小さくされた側の方におられるのです。事実、イエス自身が、最も小さな者である赤子としてこの世に遣わされました。そして、罪人として死刑になりました。このことは重要なポイントであります。しかし、それよりも遥かに上回る最大の極みは、その方が、父なる神によって復活させられたということです。
復活したイエスはキリストとなり、世の救い主となられました。そして、「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。」いると言ってくださっています。つまり、復活したキリストは、父なる神と同じように、私たちの喜びも悲しみも、罪も願いも、叶わなかった希望も、すべて知っていて下さるお方となったのです。したがって、私たちもその方、つまり、イエスを、復活した救い主イエス・キリストを十分に知ることが必要です。
キリストを十分に知るとは、何も難しい学問をすることではありません。そうではなく、十分に十字架上のキリストと話をする。自分を開いて、自分が良いと自負している点も、自分の犯した罪も、自分の喜びも、自分の悲しみも、叶わなかった希望も、全部、心を開いて打ち明ける。そうすることによって、イエス様も必ず応えて下さる。心から悪かったと思えば、罪も許して下さる。そして、想像を絶する方法で罪から解放してくださる。叶わなかった希望が、なぜ叶わなかったかも教えてくださる。次の新たな希望をもたせてくださる。
そして、これらのことをすべて祈りと言います。そして、このように、神様がいつも共にいてくださること、その神様とはいつでも、このように親しく語り合えることを、『福音』と言います。
ヨゼフ祭が行われる今週、創立者フロジャク神父がそうしたように、ヨゼフ様の執り成しを願いながら、主なる神様と親しく語り合いましょう。
校長 大矢正則