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はらわたを突き動かされて(聖書朝礼講話)

投稿日2021/2/15

【朗読箇所】マルコによる福音書1章40節~45節

【校長講話】
 今日の福音朗読箇所は、重い皮膚病を患っている一人の人が、イエスの元にやってきて、ひざまずき、「御心ならば、私を清くすることがおできになります」と願ったという場面です。
 重い皮膚病患者は、当時の宗教上の偏見と、世間の人々の目があったために、本当に社会の底辺を這うように生きるしかなかった、弱い者の側に置かれた人でした。この人を見てイエスは、「深く憐れんで」とありますが、こう訳されている元の言葉は、スプランクニツォマイというギリシャ語です。新約聖書の中で、「深い憐れみ」を表す場面では、このスプランクニツォマイというギリシャ語が原文では使われています。
 たとえば、マタイ20章34節で、「イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり」という節の、「深く憐れんで」がそうですし、ルカ10章33節で、追いはぎに遭って大けがをしている旅人を見たサマリア人が、「そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した」という場面の、サマリア人の「憐れに思い」という言葉にも、スプランクニツォマイという言葉が使われています。
 ところで、このスプランクニツォマイという言葉ですが、単に、現在の私たちが考えている「憐れに思う」という気持ちよりもかなり強い意味を持っています。スプランクニツォマイという言葉は、「はらわたを突き動かされた」という意味なのです。スプランクニツォマイという言葉の中に含まれている、スプランクナという名詞についてですが、はらわた、内臓です。胃や十二指腸、大腸、小腸などがスプランクナと呼ばれていたそうです。したがって、スプランクニツォマイとは、まさに、「はらわたを突き動かされる」という意味になるのです。つまり、理屈や頭で憐れに思ったというレベルではない。はらわたを突き動かされ、いても立ってもいられないほどの揺さぶられた気持ちを表しているのです。(本田哲郎『聖書を発見する』岩波書店 p.178)
 ですから、今日の朗読箇所でも、イエスは、世間から、自分以外の人にも、また、当時、人々が考えていた神にも近づくことを禁じられ、人間の集団から離れて生きてきた、重い皮膚病を患っている人を見たとき、単に、頭で「憐れに思った」のではなく、腹の底から、はらわたを突き動かされて、その人に触れたのです。ここで、その人に触れたと書いてありますが、これは、当時のユダヤ社会では、もちろん、律法やぶりですし、人々から、忌み嫌われていた重い皮膚病を患っている者に触れるということは、実にセンセーショナルな常識破りでした。しかも、実は、ここでも、「触れた」と訳されている元のギリシャ語を辿ると、「ハプトマイ」という言葉に行きつきます。この「ハプトマイ」もまた、触れるというほどの軽い接触ではなく、「しっかりとかき抱く」「抱きしめる」という意味なのです (同 p.180~p.181) 。
 つまり、この箇所は、イエスが神の力によって、重い皮膚病の患者を治したという奇跡が、本質ではなく、イエスが、これまで世間から虐げられ、人にも、神にも近づくことを禁じられ、人里離れたところで、ひっそりと、さみしく、一人ぼっちで生涯を送ってきた者が近づいてくるのを見て、はらわたを突き動かされ、しっかりと抱きしめた。これまで、哀れにも虫けら以下のような扱いを受けてきた重い皮膚病患者にとっては、このことの方が奇跡だったのです。そのことで、これまで人間扱いされてこなかった重い皮膚病患者が、初めて人間らしく扱われたのです。その喜びを、この人は人々に告げ広めずにはいられなかったのではないでしょうか。

参考書:本田哲郎『聖書を発見する』岩波書店

校長 大矢正則

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