中学校・高等学校

放送聖書朝礼 9月28日

投稿日2020/9/28

【朗読箇所】マタイによる福音書21章28節~32節

【校長講話】

カトリック教会では、昨日は「年間第26主日」を祝いました。主日のミサでは、福音書の他に2箇所、合計3か所の聖書が読まれるのですが、昨日の第1朗読は旧約聖書『エゼキエルの預言』18章25~28節が読まれました。要旨は「悪人が自分の行った悪から離れるなら、彼は自分の命を救うことができる」というものでした。

第2朗読は『使徒パウロのフィリピの教会への手紙』2章1~11節。中心は2節から5節で、引用すると、「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。」ここまでが、第2朗読の引用です。

そして、福音朗読はいま読んでいただいた『マタイによる福音』21章28~32節。イエスが、当時の宗教的リーダーであった祭司長や長老に、次のように問いました。「ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」(28~31節)

今日のキーワードは、29節の『考え直して』という言葉。父の望みに対して、『承知しました』と言いながら、その通りにしなかった弟と、最初は『いやです』と答えたものの、後で『考え直して』出かけていった兄。神はこのように考え直した者を喜んで受け容れます。つまり、後から来た者、遅れてきた者を、まるで依怙贔屓しているかのように喜んで受け容れる方なのです。

第1朗読にも同様のことが書かれています。冒頭で紹介した「悪人が自分の行った悪から離れるなら、彼は自分の命を救うことができる」の後には、「彼は悔い改めて、自分の行ったすべての背きから離れたのだから・・・」と続きます。『主の道は正しくない』(エゼキエル18.25)という人々に対して、主が言われた言葉です。

これは、先週、この聖書朝礼で、皆さんの中のお一人に、この放送室から読んでいただいた、あのぶどう園の労働者のたとえ話(『マタイによる福音』20.1~16)にも相通ずるものす。あのときもそうでした。朝からずっと働いた者にも、夕方から少しだけ働いた者にも、同額の報酬を与えられました。それで、朝から働いていた者は、遅く来て少ししか働かなかった者と同様の扱いしか受けなかったことに抗議しました。それに対しての主の答えは、『わたしの気前のよさをねたむのか』でした。「わたしは最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたい」。主はそういうお方です。その主に向かって、人々は言います。『主の道は正しくない』

『主の道は正しくない』とは、どういう意味なのか? それは、「悪人の回心を喜び、正しい人の不正に対して厳しい神について、人間はそのように(主の道は正しくないと)考える」と理解してよいと思います。

主の道の正しさをパウロは今日の第2朗読の中で伝えています。「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい」。主の気前のよさをねたんではなりません。もっと単純に言えば他人をねたんではならないとパウロは獄中からメッセージしています。実はこの単純な命題が、私にはもっとも難関の課題なのですが。

パウロはさらに、「それはキリスト・イエスにもみられるものです」と道を示します。無実の十字架上の苦しみの中で、イエスは隣で十字架に張り付けられていた盗賊に楽園に入ることを約束されました。それは、盗賊が最後に『考え直した』からでありました。

校長 大矢正則

 

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