まずは、一昨日の熊本地方の大雨洪水の大災害で犠牲になった方を悼み、また、被災された方々に心からお見舞い申し上げます。
さて、今日の朗読箇所は短いですが、3つの部分からなっています。25節~26節までが最初の部分、27節が第2の部分、そして28節から30節までが3つ目の部分で、この3つ目の部分は、俗に、といってもカトリックの中で俗に、「軛の福音」と呼ばれる有名な箇所です。聖書の中で一番好きな箇所をあげてもらうと、ここですと答える人も多い箇所です。
軛とは、牛や馬の首にかけて荷物を引かせる道具で、2頭だての牛馬の首に渡して使うことによって、それぞれの牛馬が勝手な方向に進むことを防ぐもので、そこから転じて、「思考や行動の自由を妨げるもの」という意味に使われる言葉です。
28節から30節までをもう一度読んでみますと、「28疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
疲れた者、重荷を負う者とはだれのことでしょう。じつは、これは特別な人を指しているわけではありません。これは、人類一人ひとりすべての人に当てはまります。つまり、いま、この放送を聞いている、あなたです。あなたは疲れていませんか。それならいいのですが、人間はだれしも疲れた日が来るものです。重荷はどうですか。これは、誰もが既に負っていますね。人は生まれながらにして、自由と共に重荷を背負っています。それは、一人ひとりが違う環境、境遇で生まれてくるからです。人生とはまさにその境遇を受け容れ、そこから芽を出し、光を目指して進んでいくことだといえます。
さて、そうした「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」というのがイエスのメッセージです。ですから、これは万人にあてられたイエスの癒しのメッセージだといえるのです。
ところで、次の29節は、日本語訳に注意が必要です。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」とそのまま読んでしまうと、イエスは私たちを優しく、そして謙虚に導き、その荷が軽くなることを約束しているように聞こえます。しかし、これは日本語訳による誤った解釈です。ここで「柔和」と訳されているギリシャ語はプラユスというギリシャ語で、「抑圧された」とか「抑圧にめげない」という意味になります。「謙遜」はタペイノスという言葉で、本来「身分が低い」という意味です。ですからここで、イエスが言いたかったことは、「私は、身分も低く、抑圧されたものではあるけれども、めげないで、私と一緒に、私と学び私たちの自由を妨げるものと戦おう。そうすればあなた方は安らぎが得られる。」ということになります。その上で、「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」とイエスは、まさに、私たちに、低みに立つ者との連帯を訴えているのであります。
校長:大矢正則