【朗読箇所:ヨハネによる福音書10章27節-30節】
今日の聖書箇所にはイエス様の「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」という言葉と、それと対をなす「わたしは彼らを知っている」という言葉が出てきます。ここの聖書箇所を読むと、私は一つの映画を思い出します。それは、もう20年くらい前の映画で、『ブタがいた教室』というものです。今もネット配信で見ることができます。どんな話の映画かというと、ある小学校に新任の若い先生が赴任してきたところから話は始まります。その先生が最初に担任をしたのは6年生でした。その先生はクラスのこどもたちに「学校でブタを一匹育てて、最後にはみんなで食べようと思います。」と提案します。教室は騒然となります。その先生はきっと命の尊さを1年間にわたって教えようとしたのでしょう。最初、ブタを嫌がっていた子どももいました。しかし、しばらくするとみんなこのブタと仲良しになり、子どもたちは、ブタにPちゃんという名前をつけ、校庭に小屋をつくり、当番を作ってえさをあげたり、掃除をしたり、フンの始末をしたりします。そういうことが好きな子どもも、フンの始末まではとてもとてもやれないと苦情を言うこどもや保護者も現れます。しかし、クラスの子どもたちは、やがてPちゃんに家畜としてではなくペットとしての愛着を抱くようになっていきます。
さて、約1年後、卒業の時は迫り、先生はPちゃんをどうするかみんなで話し合って決めてほしいと提案します。クラスの意見は「食べる」「食べない」に二分されます。実際には「食肉センターで食用肉にしてもらう」か「下級生に引き継ぐ」という投票だったと思います。「食用肉にしてもらう」という意見の子どもたちの言い分は、豚はいつか死んでしまう。歳を取って死んだブタは食用にならずに捨てられてしまうだけだ。それでは可哀そうだ。そもそも、この豚は、食べてもらうために生きてきたのだから、自分たちの責任で食用肉にしてあげるべきだというものです。一方で、「下級生に引き継ぐ」という子どもたちの言い分は、可哀そうだ。最初は食べるつもりで飼っていたけれど、いろいろなことがあった。Pちゃんが病気にかかったときはみんなで夜通し看病したことだってある。それに、Pちゃんは、いつも自分たちのそばにいて、クラスを和ませてくれた。体育の授業だってPちゃんは僕たち、私たちと一緒に走った。もう、クラスの一員だ。Pちゃんはもう自分たちを信用しているから、自分たちが卒業するときだって、Pちゃんは自分だけが食用肉とされるために食肉センター送りになるとは思わないだろう。きっと素直に食肉センターのトラックに乗り込み、にこにこしながら出ていくだろう。そんなこと、どうしてもできないというものでした。
このあと、結末がどうなったかは、どうぞ皆さん、原作を読むか映画の配信をみてください。
さて、今日の聖書のたとえは羊と羊飼いでした。しかし、日本では羊も羊飼いも馴染みがありませんので、豚の話をしました。
どうでしょう、皆さん。先程の話の豚が最初、クラスに来たときは、単なる家畜に過ぎませんでした。それは他の子どもたちにとっても他の豚と何ら変わらないものでした。ひょっとしたら、この豚が教室に来た頃、夜中にこっそりと先生が他の子豚と入れ替えてもクラスのみんなは気づかなかったかもしれません。しかし、教室で一緒に過ごし、Pちゃんという名前がついた頃には、一人ひとりの子どもにとって、この豚は、もう単なる豚ではなく、Pちゃんという唯一の存在へと変わっていったのです。Pちゃんにとってもまた、クラスの人たちのことがわかるようになっていったのでしょう。今日の福音書に書かれている「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」という、神と人間の関係はこういうことを言うのではないでしょうか。
私の知り合いに大きな養豚管理システムの会社に勤務している方がおられます。豚のプロであるその方によれば、養豚場で飼われている大量の豚はみんな同じような顔をしていて個性がないというのです。しかし、ペットとして飼われるようになった豚は、みな違った顔になって来るそうです。養豚場の豚がベルトコンベアーで運ばれ、ナンバータグで区別されているのに対して、ペットの豚は主人から抱きかかえられ。名前もあります。名前をつけられ、名前を呼ばれることで、動物でさえ自らが呼ばれていることにきづきます。養豚場の豚は恐らく一生、名前を呼ばれることはないでしょう。ペットの豚は毎日、自分の名前を呼ばれ、どんどん自分らしく、その豚らしくなっていきます。顔に個性が出てきて、他の豚と区別ができるようになります。生き物とはそういうものです。
今日の聖書箇所は、神は私たちを知っているということがメッセージされています。神は私たちを知っている。もちろん、この「知っている」の意味は、養豚場の管理システムのように私たちをかたまりとして、あるいは、ナンバータグやID番号として知っているのではありません。あなたをあなたとして、ちょうど先ほどの映画の子どもたちが、クラスの豚を、Pちゃんとして可愛がり、愛おしく思い、また、憐れんでいたように、神は私たち一人ひとりを憐れみ、寄ってきて下さり、話を聞いて下さり、肩を貸してくださいます。
私たちの方もまた、その方に信頼を寄せるとき、その方、つまり神もまた、私たちの応答を喜ばれる。その応答を拒むということは、イエス様の仰る「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」ということに対する拒絶であり、それこそが、実は人間の陥りがちな罪です。そしてその罪が同時に罰でもあることを、イエスの声を聞き分けようとしている者ならば知っていると思います。
校長:大矢正則