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放送聖書朝礼9月14日

投稿日2020/9/14

朗読箇所 マタイによる福音書18章21節~35節

【校長講話】
 ペトロがイエスのところに来て聞きます。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」それに対する、イエスの答えは、「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」という想像を絶するのもでした。なぜ、これが、想像を絶するのかというと、七の七十倍とは、いまでいえば490回ということになるのでしょうが、当時のユダヤの社会では、この「七の七十倍」は、「限りなく」、あるいは、「無限に」という意味に等しかったからです。しかも、赦しは回数の問題ではありません。この意味をわからせるために、イエスは、一万タラントンの借金を赦されながら、自分は百デナリオンの借金を返さない友人を牢に入れてしまった男の話をします。
 その男はある王に、一万タラントンという莫大な借金を抱えてしまいます。一万タラントとは、現在のお金でいうと、四十億円近い金額です。当時の社会では、借金を返せないと、本人には強制労働が課され、妻や子あれば、彼女らは奴隷として売られてしまいます。つまり、謝金を返せないと人生は、ある意味で終わってしまいます。そんな窮状を必死になって王に訴え、謝金返済の期日の延長を懇願します。
 そのように男がしきりに赦し乞う姿を見て、王は「憐れに思い」、借金そのものを帳消しにしてしまいます。つまり、本来ならば、これから、自らは強制労働を強いられ、妻や子供は奴隷として売られるところだったのですが、それらが赦され、借金自体も帳消しにしてもらったわけです。これは、この男が望んでいたこと以上の赦しでした。
 では、なぜ彼は赦されたのでしょうか。借金を返せないというのは罪人です。罪人はなぜ赦されたのか。それは、借金を背負い、自分の人生を棒に振り、妻や子が奴隷に売られようとされている男を見て、王が、「憐れに思った」から。ただ、それだけの理由です。決まり事や理屈を通り越して、「憐れに思った」。この「憐れに思った」を、岩波書店版の新約聖書は、「腸がちぎれる想いがし」と訳しています。つまり、理屈を通り越した、本当の憐れみ、神様から見たら、ご自分の最高傑作である一人ひとりの人間が苦しむのは、身を切られる思いなのです。「腸がちぎれる想い」。これは聖書の原語では、「スプランクニツォマイ」というギリシャ語で表されています。「スプランクニツォマイ」の「スプランクナ」とは内臓を意味する語ですから、「スプランクニツォマイ」はまさに、「内臓をえぐられる」という感覚です。
 王は、借金で、妻や子を奴隷に取られそうな男を見て、「腸がちぎれる想い」にかられ、赦したのです。
 一方、男は、自分が赦されたにも関わらず、自分が百デナリオンを貸している友人がそれを返さないからといって、牢に入れてしまいます。牢に入れるということは強制労働を課すことであります。百デナリオンとは、一万円くらいです。四十億円を赦されたこの男は、一万円の借金を返せない仲間を赦せなかった。この男とはいったいどういう男かと思ってしまいがちですが、実は、この男こそ、私たち自身なのではないでしょうか。
 つまり、私たち人間は、腸がちぎれる想いと例えられる神様の無限の憐れみによって、自らの罪を赦されながらも、それに気づいているかいなかわからないけれども、友だちや仲間や家族、先生、あるいは、自分を、その弱さゆえからおかした、小さな罪さえ赦さずに、平気で生きているのではないでしょうか。
 神様からいただいている無限の赦しに感謝し、私たちもまた、人を裁くことのないよう、神様の憐れみを分け与えていただけますように。

校長 大矢正則

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