【朗読箇所】
ルカ17章5節~10節
【校長講話】
今日の朗読箇所は、イエスの弟子たちが、イエスに「わたしどもの信仰を増してください」とお願いしたときの、イエスの答と、そのあとに続く、主人に仕える僕の在り方の話です。先週に引き続き、なかなか解釈が難しい場所の一つです。
弟子たちが、イエスに、自分たちの信仰を増やしてほしいと言ったと書かれています。ということは、弟子たちは弟子たちなりに、自分たちはある程度の、あるいは、イエスの弟子とされて、しばらくの間イエスと寝食をともにして、人々に神の国が近づいたことの教えるための旅をしているのであるから、自分たちはイエスからときどき話を聞くだけの一般大衆よりもまさった信仰を持っていると思い込んでいたことが推察されます。しかし、信仰を増してくださいという、彼らからの求めに対するイエスの答は、「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」という、弟子たちが自身では少しは持っているだろうと自負していた信仰を、端から否定するものでした。
つまり、イエスは弟子たちに対して、からし種一粒ほどの信仰さえ持っていないと言い切っているのです。
皆さんの中でからし種を見たことがある方はいるでしょうか。それは直径1~2ミリほどの種で、聖書の時代、畑に蒔く種の中で最も小さいものとして知られていました。そして、イエスは弟子たちにからし種ほどの信仰さえも自分たちは持っていないと伝えようとしたのです。
さらに、注意深く考えてみましょう。イエスは、そんな小さなからし種ほどであっても、信仰があれば、桑の木に『抜け出して海に根を下ろせ』と言ってもその通りになると続けています。
桑の木は、しっかりと地中に根を張り、引き抜くことが困難なものという特徴を持っています。このように根が非常に深くて強い、動かすことが困難なのも出さえも、からし種ほどの信仰で、地面から抜け出すとイエスは語ります。さらには海に根を下ろすというのです。
現在の私たちはしばしば「母なる海」という表現を使いますが、精神分析の創始者であるフロイトは海を、理性を脅かす衝動的欲望の象徴と捉えていました。一方で分析心理学派のユングは、母性の原型、自我を包み込む無意識の象徴と捉えていました。しかし、聖書の世界での海は、混沌、破壊、人間にコントロールできない力の象徴です。14年前の東日本大震災で発生した津波は、まさに海が、破壊であり、人間にコントロールできない力であるという聖書の世界観を私たちは痛感したわけです。
そんな混沌、破壊の中にさえも、からし種一粒ほどの信仰があれば、桑の木に根を下ろさせるとイエスは仰っている。からし種と強固な桑の木、からし種と深すぎる海。その大きさで比較すれば圧倒的な差があります。しかし、この圧倒的な量的な差があってさえも、からし種一粒ほどの信仰は、強い木を動かし、絶望の海でも流されない。イエスはそういうことを私たちに教えている。
からし種は先ほど最も小さい種、小ささの象徴という話をしました。一方でこの種は2~3メートル、場合によっては4メートルの高さの木に成長します。したがって、聖書でからし種は成長の象徴でもあります。
信仰は小さくてもよい。いや、信仰と言わなくてもいいでしょう。自分は神を信じているとか、良いことをしているとか、そういうことを誇るのではなく、自分は一人では生きていけない弱い存在である、誰かの力が必要だ。自分はけっして絶対的な存在ではない。ここで、自分とは、自分の考え、自分の力、自分にできること、自分がしてきたこと、自分がやろうとしていること、そういうものだと考えてください。その自分にはできないことがある。たとえば自分を好きになれない。
しかしそんな自分さえも、神様は心にかけてくださっている。良い計画を立てていてくださっている。未来の自分に向って歩ませてくださる。そうだ、自分にはそんな方がついていて下さる。その恵みによって生かされていこう。私の捉われた思いはあの桑の木のよう、私は絶望の海の真っ只中かもしれない。私にはからし種ほどの信仰さえない。一人では生きられない。
そのことに気づいたとき、神様はそれを信仰として受け取ってくださり、あなたを迎え入れてくださいます。からし種ほどにも見えないわずかな信仰の量を、豊かな質に変えてくださいます。
私たちは桑の木のような囚われの身から解放され、希望の道を歩むことができます。
すべてが恵みです。
校長:大矢正則