【朗読箇所】
マタイによる福音書24章37節~44節
【校長講話】
個人的なことになりますが、昨日は、母の一周忌の法事のため、私の実家のある横須賀に親戚一同が集まりました。法要を済ませ、私の実家で、皆で食事をした後、私はソファでうたた寝をしてしまいました。すると、4歳になったばかりの孫が、私の耳元に近づく、「起きなさーい」と叫んだので、私はビックリして飛び起きました。さらに、私の64歳の妹が私の孫に、「はい、ちょっと早いけれど、これクリスマスプレゼント」といって、ディズニーのプリンセスのキャラクターグッズやお菓子を渡していました。
教会でも、昨日からクリスマスを待つ季節が始まりました。英語ではそれをアドベントと言いますが、これは元々ラテン語のadという単語と、ventusという単語から来ています。adというのは、「どこどこへ向かう」という意味です。ventusは「来る」という動詞が変化した単語です。つまり、待降節、adventusは、「来るものへ向かう」という意味となります。待降節において「来るもの」とは、救い主を指します。この救い主は、実は三つの方法で、私たちの許に来てくださいます。正しく言えば、一つ目は来てくださいました。二つ目は来てくださっています。三つ目はこれから来てくださいます。ということになります。といっても神は永遠の存在であり、時空を超えた方ですから、人間のレベルで見た、過去・現在・未来という時間の中に、神を押し込むことには無理があるのですが、私たちにとって考えやすいように、今日は時間軸に添って話を進めます。
歴史の中で、最初に来てくださった救い主は、イエス・キリストです。イエス様の誕生がクリスマスの出来事です。イエスはマリアの胎内から人間の体をもってお生まれになりました。つまり、それまでは、預言者を通して人々に呼び掛けるだけの見えない方であった神が、人間と同じ形の方として見えるものとなられたのです。人々の前に来られたその方は、人として最も弱い存在である赤子、赤ちゃんとしてこの世に来られました。赤ちゃんというのは人の助けを借りなければ生きていくことはできません。しかし、同時にその存在そのもので周囲の人々を喜ばせます。まさに、この姿こそ、主なる神のあり方を象徴しています。つまり、神様は私たちと一緒に成長されたい方、そして、存在そのもので私たちを喜ばせる方なのです。
二つ目の来訪は今現在です。このことを、前の教皇フランシスコは、「主は絶えることなくわたしたちを訪ね、日々、私たちに寄り添って歩んで下さり、慰めの存在でいてくださいます」と語られました。
そして、三つ目の来訪が、この世が終わるとき、つまり、神の国が実現するときの、主の来訪です。今日、読まれた福音では、この三つ目の来訪についてイエスご自身が語っておられます。「目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたにはわからないからである」(マタイ24.42)と。
「目を覚ましていなさい」。イエス様のこのメッセージは、私たちに、一晩中起きていなさいと仰っておられるのでは、ありません。イエス様が仰っている「目を覚ましていなさい」とは、心を鈍くするなということです。しかし、私たちは、常に敏感でいることはまた生きづらいものです。数年前から日本でも『繊細さん』あるいはHSPという言葉がもてはやされています。HSPはHighly Sensitive Personの頭文字で、まあ、非常に敏感な人という意味でしょう。この概念は心理学の世界でも比較的新しい言葉で、学術的にはSPS(=Sensory Processing Sensitivity)といいます。20世紀の最後に出てきた言葉です。巷でよく『繊細さん』といわれるHSPは、このSPSという専門的な概念を、一般の人にわかりやすいように、一つの人間の性質、あるいは性格として使われ始めた言葉です。
HSPは性格の一つですから、いいも悪いもないのですが、その性格をどう生かすか、あるいはその性格のままで、どう社会生活を営むかで人の生きやすさ、生きにくさは変わります。すべてに対してHighly Sensitive、つまり敏感すぎては生きづらい。しかし、すべてに対して鈍感であるのもまた考えものです。誰かに聞いたのか、どこかで読んだのか忘れてしまいましたが、鈍感さはときには罪であるという言葉を聞いたことが幾度かあります。私もそう思います。
では、今日の聖書箇所においては、イエスは何に対して心を鈍くするなと仰っているのでしょうか。
弱いものに対する無関心。これが、イエスのいう鈍い心です。孤独な人々や見捨てられている人々の重荷をともに担おうとしない、学校でいえば、例えば、いじめられているクラスメイトがいたときに、それを見て見ぬふりができる鈍感さ。イエスはこれを「目を覚ましていなさい」という言い方で、厳しく禁じています。
したがって、目を覚ましているとは、どんな状態かと言いますと、それは、まさに、つらい状態に置かれている人、助けを必要としている人を見落とさないでいるということです。見てみるふりをしない。つらい思いを強いられている人に対して具体的に関心を向け、自らのこととして考え、必要な助けを、出来得る限りする。隣人となるということなのです。誰かが助けを求めているときに、イエスは実際に私たちに助けるよう、まさに、目を覚ましているよう、「起きなさい」と、その人を、つまり助けを求めている人を通して、語りかけます。
年末は、何かと忙しい時期となり、ついつい、小さき者たちの叫び声を聞き逃してしまいます。私たちが必要な鈍感力とともに、必要な敏感さももって、主の呼びかけに気づくことができる恵みに与かれますように、皆さんで、ご一緒に主の祈りを唱えましょう。
校長:大矢正則