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聖書朝礼 DoingよりもBeing

投稿日2023/9/25

 今日は『マタイによる福音書』の20章の冒頭、「ぶどう園の労働者のたとえ」を読みます。
 まず、1節、2節。

「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。」

 主人は、労働者と約束をします。労働者は1日につき1デナリオンもらえる約束で雇われます。
 続いて3節から7節。

「また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。」

 今度は、主人は労働者と何も約束をしない。『ふさわしい賃金を払ってやろう』と言われただけです。労働者は主人を信頼して働きに行くわけです。
 ちなみに現在も、誰にも雇ってもらえない人がいます。高齢者。障害のある人。・・・。どんな人たちが雇ってもらえない人とされているのか、考えてみる必要があります。
 話をたとえ話に戻します。主人にとって『ふさわしい賃金』とは、すべての労働者が、家族と一緒に生活ができる、つまり食べていくことができる賃金です。生活とはライフのことです。ライフはまた生活以外にも、いのち・人生を表します。つまり、ライフとはbeingなのです。何時間働いたかというdoingのものさしでは、神様は人を評価しなかったのです。
 続きを読みます。8節から12節です。

「夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』」

 ここで、最後に来た人から先に賃金が支払われたのはなぜか。神さまは、小さくされている側の人を優先される方です。最後の人はどれぐらいもらえるかと心配しているだろうからということで、主人、つまり、神さまは監督の手を通して、最後に来た者から先に支払うようにされたのです。
 ところが、1日1デナリオンという約束で最初に雇われた人たちは、勝手にもっともらえるだろうと思いました。そして自分と後から来た人たちを比較して、後から来た人たちを見下すかのように、『この連中と同じ扱いにするとは』と、主人を批判するような不平を言ったのです。
 13節から15節を読みます。

「主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』」

 主人ははっきりと答えています。『不当なことはしていない』、約束を守っている。そして、後から来た人々に対しても自分の金を気前よく使いたいのだと。
 最初から働いた人は、他の人も、主人の気前の良さによって、1日の生活ができるようになったことを見て、喜ぶのではなく、ねたんでしまいます。
 朝早くから働いていた労働者の多くは、健康な心身を持ち規則正しい生活をしていた人たちなのでしょう。一方で後から雇われた労働者たちは、昼夜逆転の生活をしていて、あるいは、今日でいえば、起立性調節障害によって、午前中は立ち上がることができない人たちだったのかもしれません。あるいは、朝から仕事を求めて立ってはいたけれど、高齢者であるとか、病気や障害があるとか、体が弱いとか、あるいは身なりがみすぼらしいなどの理由がある人たちだったのかもしれません。
 後の者が先になったのは、主人を全面的に信頼したからです。
 神の呼びかけについても今回のたとえ話は教えています。それぞれ時は違いますがすべての人は、ぶどう園に属し、働くように招かれています。一人ぼっちの人も、自分の性格や将来に悩んでいる人も、他の宗教を信じている人も、罪を犯したと思われている人も。
 ここで、主人はキリストがそうであるように、その人の時に合わせて、9時にも12時にも、3時にも5時にも、招きに出て行きます。主人、これは神ですが、この神からの呼びかけに対する、労働者たちの応答についても見ておきましょう。
 最初に招かれた人は、どれぐらいもらえるか、ということについて、主人と約束をしました。しかし後に招かれた人々は、主人と何も約束をしません。こう対比すると、最初に招かれた人は、「もらえるから働いた」人たちだったのかもしれません。それに対して後から招かれた人々は主人から約束をされていません。昼や夕方まで立って、自分を雇ってくれる人を持ち続けた彼らにとっては、招かれて、働けること自体が恵みであり、人々に仕えることは嬉しいことでありました。主人を信頼して、「ふさわしい賃金」とは何かを、主に任せています。
 すべての人々に呼びかける主人、父なる神は、すべての人々の救いを望んでおられます。その救いとは、何かをして、たとえば決まった時間を働けば得られる報い(賃金)のようなものではなく、父なる神の憐れみによって与えられる恵みなのです。
 神の国は、贈り物であり、律法を守った報いではないのです。救いは、自分の努力だけで得られるものではなく、主人、つまり、父なる神の憐れみによるものなのです。
 「私の気前の良さをねたむのか」という主人、つまり神の言葉。わたしたちは比較するときに、人をねたんでしまいます。そして多くの場合、Doing、つまりしたこと、していること、出来ることの比較によって、人をねたみます。しかし、神さまは人を比較しません。人を一人ひとり見てくださいます。一人の人間の存在全体をよしとされています。これは、Doingの眼差しではなく、Beingに軸足を置いた眼差しです。神さまはDoingではなくBeingの大切さをもって、人を一人ひとり愛してくださる方なのです。
 最後に、「後にいるものが先になり、先にいるものが後になる」ということについても考えてみましょう。この世界では誰が排除されて後になっているのか。そして家庭では、学校では私は誰を後にしているのか。あなたは誰を後にしているのか。わたしたちは、いつでも、家庭で、学校で、社会で、優先されている人と後回しにされている人がいるということに敏感でいたいものです。そして、後回しにされている人たちに何ができるか、いや、後回しにされている人の側に立つにはどうしたらよいかを、考えて行動する人となりたいものです。

校長:大矢正則

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