皆さん、おはようございます。皆さんは、2週間余りの春休みをどのようにすごしていたでしょうか。私は、実はあまり普段と変わらない生活をしていました。つまり、ほぼ毎日、学期中と同じように朝、出勤して、仕事をして、夕方帰宅するという生活です。ときどき、学校教員という仕事を知らない人から、先生は生徒が休みの間は、いったい何をしに学校に行くのですか、と聞かれます。人間というのは経験—この経験には見聞も含まれますが—したことしか想像できないと、何かの本にかいてありましたが、そのとおりであると思います。先生方は春休みの間には大仕事があります。その一つは生徒指導要録といって、皆さん方の一年間の学校生活の記録を残す作業です。もう一つは、新年度に向けての準備です。名簿を作ったり、教室の机・椅子を揃えたり、中には、全クラス分の時間割を作成するという先生もいます。これらは地味な仕事ですが、学校の日常が維持されるためには、どれも欠かせない仕事です。私の場合は、始業式や入学式の話の原稿を考えたり、先生がたに向けて実施する研修の内容をパワーポイントで準備したりといった仕事をしていました。
私は仕事をしながら、ふと考えることがあります。私はなぜこの仕事をしているのかと。考えすぎると、私はワーカホリック—ワーカホリックとは、仕事をしていなければいられない仕事中毒症のことですが—そのワーカホリックなのではないかと思ってしまうのですが、これはやは違うという結論に至ります。なぜなら私はワーカホリックと他人から思われるほど仕事をしていないからです。むしろ、先生方の中では、一番早く、職場から退勤します。
それでも、今の私には仕事をすることがとても重要だと私自身思います。それは、ひとつには、まだ働けるということ。ふたつめには、まだ働かせていただける場がある—東星学園ですが—ということが理由です。しかし、更に深く考えますと、それだけが理由ではないことに気がつきます。
ちょっと話が大きくなりますが、人間は傷つきやすい生きものです。そして、人間はまた、本能的にその傷を癒そうとする存在です。ここで、注意が必要なのは、人間は本来的に、他者によって癒される存在だということです。人は、自分が存在することによって癒されます。自分が「いる」ということによって癒されるのです。しかし、この存在する、「いる」という事態は、他者もまた存在すること、他者もまた「いる」ことによってのみ成立します。そうしてみると、人間は本質的に他者の存在によって癒されるものであるということがわかるでしょう。
ちょっと話がむずかしくなってきましたが、ここまで、人間は、自分が「いる」、他者が「いる」ということによって癒されることを述べてきました。
ところが、人間が癒されるのは、「いる」、つまり存在する、もう一度言い換えるとbeingによってのみ生じる事態ではありません。人間は実は、「する」こと、つまりdoingによっても癒される存在です。それが「人間が仕事をする」ということの一側面であり、皆さんにとっては「勉強する」ということがそれ—doing—にあたります。つまり、大人は仕事をすることによって癒され、学生は勉強することによって癒されるのです。癒されるというと、なんとなくヒーリングのような感じがしますが、少し前に耳にタコができるくらい流行った「自己実現」なる言葉を使うと、仕事をすることは大人の自己実現にとって有益であり、勉強することは学生の自己実現にとって有益であると言い換えてもいいでしょう。自己実現は癒しの裏側の顔であり、癒しもまた自己実現の裏側の顔です。皆さん、勉強し終わった後は、それだけで達成感が得られるでしょう? それは、こういう理由によるのです。
世の中は、未だに競争社会としての一面を残しています。そこでは、椅子取りゲームの椅子の取り合いが行なわれています。椅子を奪い合っている間は、癒しはありません。ということは本当の自己実現は競争に勝つことでは実現しないのからです!
皆さんは、この社会の中で、皆さんにとっての小さな社会であるご家庭で、また、学校で、椅子取りゲームをするのではなく、社会のために椅子を作る存在であってください。そして、お互いをbeing、つまり存在しあうものとして癒しあいながら、同時に自ら勉強するというdoingの力で、どうか自分を癒すことを心がけてください。1年間、お互いに健やかに過ごしましょう。
校長 大矢正則