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10月17日聖書朝礼 やもめと裁判官のたとえ

投稿日2022/10/17

 今日の福音は、「やもめと裁判官」のたとえと小見出しが付いているものです。やもめとは、夫を亡くした女性のことであり、当時のユダヤの社会において、やもめは孤児や異邦人と並んで社会の中で最も弱い立場にある人たちでした。一方、裁判官は権力者であり、律法に基づいて裁判を行うように求められていました。したがって、聖書の伝統では、これは、出エジプト記18章21節にあるのですが、「神を畏れる有能な人で、不正な利得を憎み、信頼に値する人物」を裁判官にするよう勧められていました。しかし、今日の福音に出てきた裁判官は、そのような人物ではなく、「神を畏れず人を人とも思わない裁判官」です。
 今日の福音に出てきたやもめは、弱い立場ゆえに何らかのトラブルに巻き込まれたのでしょう。そこで、裁判官のところに行き「相手を裁いて、私を守ってください」と頼み込みました。しかし、ここに出てきた裁判官は、取り合いませんでした。相手が、やもめという、お金も持っていないような社会的に低いものとされていた存在でしたから、余計に取り合わなかったのでしょう。
 ところが、やもめが諦めずに何度も何度も裁判官に頼みに行ったので、この裁判官は裁判を引き受けることにしました。しかし、それは、この裁判官が、神を畏れるような有能な人物だったからではなく、ただ単に、やもめがうるさくてかなわないから、すなわち、そろそろ裁判を引き受けないと、このやもめはひっきりなしにやってきて自分をさんざんな目に遭わすにちがいないと考えたから、渋々裁判を引き受けたわけです。
 ここで、私たちが学ぶべきことは、諦めずに最後まで願うということです。このような、神を畏れず人を人とも思わない裁判官でさえ、理由はともあれ、最後は弱いやもめを顧みたのですから、ましてや、神様は、私たちの願いを聞き入れて下さらないはずがありません。しかも、今日の福音の後半に書かれている通り「神は速やかに裁いてくださる」方です。この裁判官のように、嫌々、渋々と裁判を開く方ではないのです。
 ただし、ここで気をつけなければならないことは、神様は願いを聞き入れてくださる方ではあるけれど、願いの内容をそのまま私たちに与えてくださる方ではない、願い通りに応えてくださる方ではないということです。もし願っただけで、その願いが叶うのならば、それこそ、神は必要ありません。というよりも、そんなことになれば神はいないといってもよいでしょう。
 実は、神様は私たちの願いをよく聞いてくださる方であり、最も良い答えを私たちに与えてくださる方です。この世では不正な、あるいは、不当な裁判がしばしば起こっていますが、神による裁きは必ず正しい結論を私たちに与えてくださいます。その結論、つまり、神様が下さるものが、私たちが願ったものとは異なる場合があります。しかし、神様は私たちが願ったものを下回るものを私たちに与えることはなさいません。神様は、いつでも、私たちの想像を超えた答を私たちにくださる方です。
 ですから、そう考えると、私たちが神に願う内容、祈る内容は、つまり、肝心なことではないということになります。それよりもむしろ、願う姿勢、祈る姿勢が大切なのです。私たちは、絶えず、神様に願い、頼み、祈ることをしているでしょうか。そういった意味では、今日のたとえ話に出てきたやもめは絶えず、裁判官に願う姿勢が見られました。
 今日の福音を締めくくる言葉は、「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」とあります。ここで、「人の子」とは救い主、イエス・キリストを指します。つまり人の子が来るときとは、キリストが再臨するときのことです。この再臨はどのような形で起こるのかを私たち人間にはわかりません。いつも人間の想像を遥かに超えることをなさってきた神様です。もしかしたら、既に再臨されているのかもしれません。だとしたら、それは、この世で最も小さくされた側の人々の中におられるのではないかと思います。神の国に一番近いのは小さくされた側の人たちだからです。そしてすべての人にイエスはこう警鐘を鳴らします。そのとき、「果たして地上に信仰を見いだすだろうか」と。ここで、信仰とは、「祈り」のことです。そして、最後にもう一度皆さんにお伝えします。祈りの内容が重要なのではありません。なぜならば、神様は願ったもの以上のものを下さる、想像を超えた方だからです。重要なことは、祈りの姿勢です。祈っていなければ、せっかく神様が与えて下さっている想像を超えるようなプレゼントに、人は気づくことができないからです。

校長 大矢正則

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