中学校・高等学校

聖書朝礼 5月10日 真の国際人フロジャク神父様

投稿日2021/5/10

【朗読箇所】ヨハネ福音書15章9節~17節

【校長講話】
 今日の福音の中心的なメッセージは、9節後半の「わたしの愛にとどまりなさい」というイエス様からの命令です。命令とは、少しかたい言い方ですが、イエス様からの命令とは、すなわち、神様からの恵みなのです。
 では、どうすれば、この命令に従うことができるのか。言い換えれば、どうすれば、この神の恵みに与ることができるのでしょうか。それもまた今日の朗読箇所で教えられています。12節がそれです。つまり、イエス様という神自身が私たちを愛してくださったように、「互いに愛し合いなさい」と具体的に示してくださっています。
 「互いに愛し合う」とは、「互いに大切にし合う」という意味ですが、この大切にする相手は誰でしょうか。もちろん、家族、親戚、友人、後輩、先生などすべての人であるというのが正解なのですが、実は、聖書では、特に大切にされるべき人々を指定しています。それは、旧約聖書の申命記10章に書かれているのです。申命記10章の、12節と、17節から19節を引用します。
 「イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え」(12章)なさい。「あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。」(17~19節)
 おわかりになったと思います。人を、偏見をもって見ないことと書かれている後に、具体的に、大切にされるべき人として、孤児、寡婦、寄留者を挙げています。
 孤児とは、ご存じの通り、親と離れ離れになってしまった子どもたちです。寡婦とは愛する夫と死別などで離れ離れになってしまった女性です。寄留者とは、何らかの理由で愛する祖国を追われた難民を指します。いずれも本来愛してくれるはずだった人や故郷へと戻ることのできない人々のことなのです。
 そして、イエス様の愛が、自らの命を与えるほど具体的であったように、私たちの彼らに対する愛も具体的でなければなりません。実際、今日の福音章では、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」とイエス様は、具体的な愛の究極の姿を示しておられます。
 私たちには命は一つずつしか与えられていません。ですから、この命は大切にすべきです。ましてや戦争なので失うことがあってはなりません。戦争において被害者にも加害者にもなってはならないのです。しかし、ひとたび戦争が起きれば、人間は容易に被害者になるのと同時に加害者にもなってしまいます。この一人にたった一つずつしかない命を、まずは戦争などから守るのは当たり前なので、戦争を起こしてはいけません。これを国際感覚と言ったら間違いでしょうか?
 何よりも私たちのたった一つの命は、平和のもとで生かしていかなければなりません。その上で、聖書の言うように、孤児や寡婦や難民を、国際社会が保護していかなければなりません。
 今、「国際社会」という言葉をあえてつかいましたが、それは、「国際社会」という誰かに任せるということではなく、あなたが、国際人として、いまここで、孤児・寡婦・難民に寄り添うことなのです。
 私たちの学園の創立者ヨゼフ・フロジャク神父様はフランス人でしたが、まさに国際感覚を持った方で、真の国際人として、彼の目に飛び込んできた日本の孤児を愛したのです。その愛は、一時の感情ではなく、孤児院(児童養護施設)を建てるという大きな愛の実行が伴いました。その愛の実行によって建てられたのが、東星学園だったということは、ここに学ぶ者として、あるいは、ここの教壇に立つ者として、一時も忘れてはなりますまい。
 現在、世の中は「グローバル化」あるいは「グローバリゼーション」という言葉に酔っていますが、真の国際人はフロジャク神父様のような方であることを再確認し、東星に集う私たちもまた、その意味で真の国際人でなければなりません。 
 そのためにも、創立者がそうしたように、イエス様の愛にとどまりましょう。

校長
大矢正則

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