【朗読箇所】
マタイによる福音書21章33節~43節
【校長講話】
今日の福音朗読箇所は、「神の国はあなたたちから取り上げられる」という、イエスの大変厳しい言葉で締めくくられています。私たちは、イエスを、寛容で柔和な人と見がちです。もちろん、それは深いところで正解ではあるのですが、今日のイエスの言葉はどうでしょう。マタイ福音書では、他にも、イエスの人々に対する厳しい言葉はいくつか見つかります。たとえば、25章30節「この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」ですとか、25章41節では、「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火には入れ」と最後の裁きを示す説教の中に出てくる言葉を引いて、語ります。
イエスのこうした、激しく厳しい一面を強調しすぎると、愛を生きた人・イエス、救い主・キリストという本質を忘れてしまいそうですが、かといって、これらの厳しい言葉を受け流してしまっては、やはり救いの本質は見えて来ません。問題は、イエスご自身が、どういうお気持ちで、これらの厳しい言葉をお使いになったのか、本当にイエスが言いたかったことは何なのかということを考えることが、イエス・キリストというお方の人類への救いを考える際、重要になってきます。
では、今日の福音書で、その重要な何かに気づかせるためにイエス・キリストという救い主が語ったたとえ話のキーワードは何か。それは、「送った」ということです。
ブドウ園の主人に例えられる神は、最初に収穫を受け取るために、3人の男を「送った」のでした。しかし、3人のうち、一人が袋叩きに遭い、二人は殺されてしまいました。そこで、主人は、他の僕たちを前よりも多く「送った」のでした。しかし、この僕たちも同じ目に遭わされてしまいます。そこで、とうとう、主人は、「私の息子なら敬ってくれるだろう」と自分の息子まで「送った」のです。そして、この主人の息子も殺されてしまいます。このように、裏切られても裏切られても、今度こそはと、人間を信頼し、僕を人間に送り続け、いまでも、毎日、一人ひとりに僕を送ってくださっているのが父なる神なのです。そして、父なる神の思いがイエスの口を通して語らえれたこの僕にたとえられるものこそが、神の息です。
父なる神は、いつ、だれにでも、どんなときにも、息を「送って」下さっています。しかし、私たちは鈍感で、その生きた神の息吹に気づきません。そんな鈍感な私たちに、ときには、「神の国はあなたたちから取り上げられる」と厳しく叱ってくださるお方なのです。もちろん、神の国を取り上げることが真意ではありません。神自らが送ってくださる「息」を拒否せず、その「息」によって喜びをもって生きることを神はお望みで、そこにこそ神の支配である神の国が現れることを教えられたいのだろうと、その真意は推測されます。
校長 大矢正則