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放送聖書朝礼7月27日

投稿日2020/7/29

【朗読箇所】マタイによる福音書13章44節~52節

「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。

また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。

また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」

(以上)

今日の福音箇所は、いくつかの互いによく似たたとえ話から成っているのですが、特に、最初の二つのたとえ話はよく似ています。一つ目のたとえ話は、畑で宝を見つけた人が、持ち物をすっかり売り払って畑を買う話。二つ目のたとえ話は。高価な真珠を見つけた人が、やはり持ち物をすっかり売り払い、それを買う話。

しかし、この話は、微妙に違うのです。

一つ目に畑で宝を見つけた人ですが、これは、その宝を偶然見つけた人といっていいでしょう。なぜなら、ふつう、畑には作物が実るものであり、宝は、誰かが偶然にそこに隠しておかないとないものだからです。実はイエスの時代、高価な宝物を手に入れた人は、それを最も安全に隠せる場所として、そうした畑の中に埋めることをしていたようです。ところが、宝を隠した人が亡くなってしまい、それを相続する人もない場合、その宝は、隠しておいた畑に放置されることとなり、今回のたとえ話のように、見知らぬ誰かによって偶然発見されるということがあったようです。つまり、一つ目のたとえ話の宝は偶然に発見されたものなのです。

それに対して、高価な真珠はどうでしょうか。これは偶然発見されたものではなく、聖書には、商人が探していたと書いてあります。つまりこちらの方は、畑の宝のように偶然に発見されたものなのではなく、探し求めていたものが、やっと見つかったものだったと考えて差し支えないでしょう。

ただ、そのいずれにしても、つまり、偶然見つけた宝にしても、探し求めて見つけた高価な真珠にしても、それを見つけた人にとっては、どちらも全財産を投げ売ってでも手に入れたいほど、欲しいものだったわけです。

ところで、それらは、つまり、偶然見つけた宝や、探し求めていて見つかった高価な真珠は、ここで、天の国の喩として語られています。天の国とは、神の支配が行き渡った世界であるということは、もう皆さんには言わずもがなでしょう。しかし、実際に天の国とは何なのか、神の支配が行き渡った世界とは何なのか、今日の福音は、そこまで深く考えるにふさわしい箇所なのではないでしょうか。

イエスご自身が、天の国の喩として語られた、畑の宝や高価な真珠。これは大胆に言うと、イエスご自身のことであります。なぜなら、イエスこそ、神の支配が行き渡ったたった一人のお方だからです。

そのイエスという方は、イエスとわからず偶然に出会う「畑に隠されていた宝」のような方かもしれません。あるいは、探しに探し求めた、「高価な真珠」のような方かもしれません。いずれにしても、そのお方と出会った人は、全財産を売り払ってでも、その方に従いたいと切望したわけです。なぜなら、売り払った財産は有限ですが、従いたいと切望したお方、イエスは永遠の方だからです。

ただ、偶然出会った「畑の宝」であろうが、探し求めた「高価な真珠」であろうと、切望しなければ、つまり、渇き求めなければ、見過ごしてしまうような小さきものであったことが、イエス・キリストの本質を表しています。

校長 大矢正則

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