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放送聖書朝礼6月29日

投稿日2020/6/29

(朗読箇所:マタイによる福音書10章37節~42節)

先週から、イエスが、弟子たちを宣教の旅に送る出す場面を読んでいます。今日は、いよいよ弟子たちを旅立てせる場面です。

ところで、イエスが宣教、つまり、「神様があなたと共にいらっしゃる」ということを人々に述べ伝えさせようと思っていたこの弟子たちは、当時の社会でどんな人だったのでしょうか。当時、蔑まれていた職業についていた漁師が中心でした。さらには、熱心党と呼ばれ、今日でいう過激なデモ隊のような暴れん坊もいました。

ここ、大事なところなのですが、最後で最大の預言者であり、やがて救い主=キリストとなるイエスが、その救いの言葉を人々に宣べ伝えさせようと選んだのは、祭司でも、学者でも、政治家でもなく、そんな、ある意味で社会の底辺で這いつくばるようにして暮らしていた階級の人たちだったのです。

当然、彼らは行く先々で拒否されるでしょう。嘲笑されるでしょう。何をホラ吹きがといわれるでしょう。そこで、イエスは弟子たちに言います。40節~42節です。

「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」と

このように、イエス自身、弟子たちに、「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に」と。

では、私たちはどうすればよいのか。「へりくだって、貧しい者、小さい者」になればよいのだろうか。そうではないと思う。大阪の本田哲郎さんという神父様が仰っているように、一部の「教会が日常的にうながすこのような考え方こそが、現に貧しく、小さくされてる仲間たちをどれほど傷つけ、侮辱しているか、気づくべき」なのでしょう。つまり、このように自ら分断を作り出すような、思い上がった、偽善的な態度の過ちを認め、いま「自分の前にいるこの人こそ、神さまがつかわした人なのだとみとめ、その人の思いと願いに連帯し、協力することこそ大事」なのです。そうするとき、わたしたちも目の前の人と共におられる同じ神様のいのちと働きを共有しているのです。神様から見たら、人の値打ちとしては、まったく同じなのです。むしろ、自分が「小さい者のふり」をしたり、「貧しい者のふり」をしたりしなくてもいい、いや、しても、意味はない。ふりをすればするほど、本物からは遠ざかっていく。これが真実なのです。

イエスは貧しく弱い者たちを、自分の言葉を伝える宣教師として世に送りました。そして、いまでも、その営みは脈々と続いています。本校の創立者ヨゼフ・フロジャク神父もその一人でしょう。フロジャク神父様はこんな言葉を残しています。

「ほんとうに私は人夫にすぎません。み摂理の人夫であっただけです」。

人夫とは、力仕事に従事する労働者のことです。また、み摂理とは、神様が一人ひとりにお与えになった幸せのご計画、もしくは招きのことです。つまり、フロジャク神父様は

「ほんとうに私は労働者にすぎません。神様が与えってくださった招きに応えた労働者だったのです」と仰って、この東星学園も設立されたのです。

皆さんは、そんな創立者の思いを知ってか、知らずか、創立者の招きに応えて、ここ、東星学園に通う小さな、しかし、明るい光です。

(参考:本田哲郎『聖書を発見する』岩波書店)

校長:大矢正則

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