6年生の皆さん、卒業おめでとうございます。ご家庭の皆様におかれましても、お子様のご卒業をお祝い申し上げます。また、6年間にわたって、東星学園小学校の教育に対し、ご理解とご協力を賜りましたこと、厚く御礼申し上げます。
さて、6年生の皆さん。私にとって、あなたがたとの思い出はいくつかあります。たとえば、昨年夏の修学旅行です。東星学園小学校としては、初めての裏磐梯方面への修学旅行となりました。きれいな五色沼へのハイキング。男子と女子に分かれてのペンションでの分宿。いろいろな思い出を作ったことでしょう。
ところで、私にとって、もっとも印象に残った思い出は、実はつい一昨日のことです。最初にこの体育館で行われたリハーサルでは、あなたがたが歌った卒業生の歌「待っているから」。ほとんど声が聞こえなかった。ピアノの音だけが、この体育館に響き渡った、そんな印象でした。
それで、3時間目にも、先生方のアドバイスのあと、もう1回、この体育館で、「待っているから」を練習しました。私は、これまでの卒業式練習で、そんなことはしたことがなかったのですが、あえて自分の席から離れ、この体育館の一番後ろに立ち、皆さんの歌声を真正面から聞くことにしました。そのときに思ったことは、ああ、皆さん、すごいな。やっぱり、これまでは力を隠していたんだな。もっと言ってしまえば、持っている力を発揮しようとしていなかったんだなと思いました。
力を発揮し始めた皆さんの、それからの歌う姿勢はガラッと変わった。まさに、今日の卒業式のテーマ、「躍動」そのものでした。4時間目の音楽の時間、音楽室と体育館にお邪魔して、皆さんの最後の音楽の授業を拝見しましたが、そこでの、あなたがたは、そして先生は、真剣そのものでした。
音楽担当の赤瀬先生は、こんなことを皆さんに仰いました。「100回、200回と練習しても、お家の人が、その歌を聴くのは一回きりなんです」、あるいは、「皆さんの歌を聴きてくれる人がたった一人であっても全力を尽くして歌ってほしい」。これらの言葉は、音楽の指導を通して語られた言葉ではありますが、音楽を超えた普遍的なメッセージがあると思います。
「100回、200回と練習しても、お家の人が、その歌を聴くのは一回きりなんです」というメッセージは何を伝えているのでしょうか。一度きりの本番に向けての、積み重ねの大切さ、日々の努力の尊さ、そして後悔しない生き方とは何かというメッセージが秘められています。
「皆さんの歌を聴きてくれる人がたった一人であっても全力を尽くして歌ってほしい」。こちらのメッセージには、真心とは何か、そして、その真心を込めて物事に取り組むことの尊さ、聴いてくれるたった一人とは誰か、それが誰であってもという、少し飛躍していえば、隣人になるとはどういうことかというメッセージさえも潜んでいた気がします。
イエス様は、「誰が隣人ですか」という問いに対して、追いはぎにあった旅人とサマリア人のたとえ話を用いて、「旅人の隣人になったのは誰だと思うか」と返し、「あなたも同じようにしなさい」とお答えになりました。この話は、宗教の時間に聞いたことがあるでしょう。イエス様は「誰が隣人ですか」という問い、つまり、自分を中心として、隣人とそうでない人の間に境界線を引くような考え方には、一切答えませんでした。そうではなくて、「あなたが隣人となるように」という答えによって、180度の生き方の変更を促しました。
卒業してゆく皆さん。私はあなたがたに、是非、あなたの助けを必要としている人の隣人になってほしい。人を支える人になってほしい。社会の中で椅子取りゲームに勝ち抜くことではなくて、社会の中で、居場所がない人に、椅子を創り出す人となってほしい。そして、何もできずにもどかしくても、共にいるから、待っているから、君のそばで、ずっと(歌「待っているから」の歌詞より)と、心の中でも歌える人であってほしい。
今日の卒業式の最後の歌声に、そして、東星学園小学校の卒業生としてのあなた方の将来の生き方に大きく期待しています。
2024年3月8日
東星学園小学校
校長 大矢正則
※ 元原稿のため、実際に話した内容とは一部異なります。