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待っていてくださる方~待降節に~ 校長・園長 大矢正則

2015/12/05(土) 14:40

 教師になる前、あるシスターから「教育者にとって最も大切なことは、信じて待つことです」と教わりました。教育現場でも、家庭でも、待つことは辛く忍耐を必要とする営みです。私のようにせっかちな人間には殊更です。

 使徒言行録1章7節に「イエスは言われた。『父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない』」とあります。つまり、主が定められた時や時期が私たちにはわからないのです。大袈裟にいうと、このこと(定められている時)がわからないので待つことは辛く、忍耐が必要なわけです。帰ってくる日がわかっている人を待つことは楽しみにもなりますが、帰る日のアテのない人を待つことは辛い。

 ところで、ヘンリー・ナウウェン(1932~1996)というオランダ出身のカトリック司祭は、「待つことの秘訣は、種はすでに蒔かれており、そこに何ごとかが始まっていると信じることです」(『待ち望むということ』 あめんどう、17ページ)と言っています。また、彼は他の本では「一粒の種が芽を出せるのは、蒔かれた地面にじっとしている場合だけなのである。育っているかどうかを見ようと、しじゅう掘りかえしたのでは、けっして実はむすばない」(『心の奥の愛の声』 女子パウロ会、46ページ)とも言っています。これを初めて読んだとき、私は何度も自分の立っている地面を掘りかえしてしまっていた、と振り返らざるを得ませんでした。そして、教師の悪い癖で、人の畑まで出かけていって掘りかえしたこともあったと思います。待つことは本当に忍耐が要ります。

 「信じて待つ」ということは、自分に対してもあてはまります。再びナウウェンを引用します。「自分も豊かな土に蒔かれた一粒の種だと考えてみればよい。私たちはただ(中略)自分の成長に必要なものはすべて土に含まれていると信じていればよいのである。この成長は、自分では感じなくてもはじまる」(『心の奥の愛の声』、46ページ)

 この中の最後の一文、「この成長は、自分では感じなくてもはじまる」というところを読むとホッとします。そういった意味で、待つことこそ最も積極的な生き方であるとさえいえるのかもしれません。ただし、具体的なもの、「これだけ」というものを求めることは、息苦しく、また、頑なになり、神様からの呼びかけに対して鈍感になります。神様からの呼びかけに鈍感になる習性を、残念ながら私たち人間は持ってしまいました。原罪とはこのことです。そうではなく、主なる神様からの呼びかけに応え、自分の思いによる、「これだけ」に執着せず、主が準備してくださっているものに開かれた態度と生き方。これが本当の意味で積極的に生きるということなのだと思います。幸せな人の生き方はこれです。

 待降節も2週目が始まろうとしており、あと20日でクリスマスです。私たちは、静かに、しかも積極的に主のご降誕を待ちたいものです。主イエスは、赤子として馬小屋でお生まれになりました。つまり、救い主は、一番弱いものとして、暗く貧しい場所に来られたのです。私たちがもし積極的に生きたいのならば、自分の弱いところ、足りないところを掘りかえしたりせずに、そのまま神様にお委ねしたいものです。神様はきっとそれを待っていてくださいます。そして、それをプレゼントに変えてくださいます。

 お生まれになったイエスのもとに最初に駆けつけたのは、貧しい羊飼いでした。彼らは主の栄光に照らされました。

東星学園幼稚園園長
東星学園小学校・中学校・高等学校校長
大矢正則

(2013年12月の小学部だより巻頭言を元に一部加筆

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